千葉大学大学院医学研究院
呼吸器内科学
千葉大学病院
呼吸器内科
平成元年に当院の呼吸器内科に赴任して25年たった.平成26年4月からは呼吸器内科部長の職を山田嘉仁(平成元年卒,以下敬称略)にわたして,おもに管理職に専念することになった.当科のこれまでのことと現状については「はなみずき2011」に書いたので,今回はいくつかつれづれに記させていただくことをお許しねがいたい.
結核に関しては,1960年前後からわが国でも次々と抗結核薬が使用されるようになり,それまでの人工気胸術や外科治療は急速に姿を消していった.千葉保之先生(昭和8年千葉医大卒;元中央鉄道病院(現当院)院長)が20余年の研究の集大成として「結核症発生の研究―結核初感染の研究・続報―」を世に出されたのが1959年であるから,結核の診療と学問はまさにこの頃からギアチェンジをして伸びてきたといえよう.新規発生患者数は減少に転じ,かわって非結核の呼吸器疾患が注目されるようになった.日本胸部疾患学会(現日本呼吸器学会)の設立は1963年である.
ところで千葉先生の研究で蓄積されたツ反の自然陽転者は13,000例にのぼり,そこからの結核発病者は1,700例,資料となったX線フィルムは間接写真150万枚,直接写真40万枚におよぶといわれる.それが鉄道中央保健管理所(現JR東日本健康推進センター)で管理されていたわけである.「全国の国鉄職員に3か月毎にツ反を行い,陽性者は3か月毎に胸部写真も撮る.ツ反も胸部写真もその結果を整理して記録する.」戦中戦後の混乱の中でものすごい仕事をなされたものだ.世界の千葉といわれた所以である.ちなみにサルコイドーシス患者のツ反が減弱化する現象をまとめてわが国から世界に発信することができたのは,このツ反観察を経時的におこなった(その中にサルコ患者が含まれていた)副産物なのだそうだ.その千葉先生は1998年6月23日に90歳で当院の1201号室で亡くなられた.臨終の場で自分は声をだすことができず玉置正勝先生に助けられてようやく死亡宣告ができたことを思いだす.
肺癌は,1916年から症例報告があるらしい,日本外科学会の宿題報告として「肺腫瘍」がとりあげられたのはその40年後の1955年であり,日本肺癌学会の前身である肺癌研究会が発足したのが1960年である.
当院での第1例目の肺癌患者は1965年にその記録がある.50歳台の男性が閉塞性肺炎のために呼吸器内科に入退院を繰り返したために胸部外科で手術されたところ,これが肺癌であることが判明した.当時の呼吸器内科長の近内康夫(昭和20年千葉大卒)と胸部外科長の長田 浩(近内と同窓,同級)は「これが肺癌というものか」と大いに驚き,「胸部外科」に1症例報告をされたとのことである.
肺線維症という病名が我が国に紹介されたのも1950年代のことらしい.1960年には第35回日本結核病学会総会で,はじめて「肺線維症」がテーマとしてとりあげられたがそれほど知られた病気ではなかったようだ.
当院での第1例目の肺線維症については1968年の近内康夫科長の記述がある.「昭和43(1968)年2月2日,宇都宮鉄道病院内科の紹介状とX線写真をもって34歳の主婦が受診した.健診で異常を指摘されたもので全く自覚症状はない.両肺下野にびまん性に微細な粒状陰影が撒布している.全くみたことのない陰影である.さて,何であろう.」と.肺線維症がいまだ稀有の時代であった.この患者はその後胸部陰影と息切れの増強があり,開胸生検で肺線維症と確定診断された.そして詳しい問診と近内の頻回の家族調査によって,血縁者5人に発症した家族性肺線維症であることがつきとめられ,1971年の第2回肺線維症研究会に報告された.三上理一郎の特別報告と3題の症例報告だけの研究会であったが,会場は「異様な熱気につつまれた」という.当院で遭遇した第1例目の肺線維症がたまたま若年の家族集積性の高いものであったわけだ.そして1974年には厚生省特定疾患肺線維症調査研究班(村尾班)が発足し近内も班員となった.全国から集められた肺線維症の生フィルムが,平成元年にはまだ倉庫に保管されたままになっていた.
サルコイドーシスは,日本の第1例目は1877年(明治10年)の皮膚病変例であった.第二次世界大戦後,米国でとくに黒人の復員軍人の中で本症が多発していることがわかり,第1回国際サルコイドーシス会議が開催され,世界中の疫学調査研究に発展した.1958年に日本での疫学調査を米国から依頼されたときには(班長 岡 治道),医師の多くが「サルコイドーシス」なる病名は知らなかったという.しかし,2年間で全国から94例のサルコイドーシス確診例が集められ,1960年の国際学会で報告された.疫学調査の拠点となったのは,前述の国鉄中央保健管理所であり,千葉保之や細田 裕らが実務にあたられた.札幌鉄道病院の平賀洋明も加わり,旧国鉄の病院と鉄道保健管理グループが全国サルコイドーシス協議会(のちに学会)の中心となった.故細田裕先生は「この新しい疾患をめぐって多くの学者たちが中央保健管理所に集まり,学問交流のサロンとなった」と記している.
50年前,サルコイドーシスも肺線維症も「新しい病気」「新しい学問の対象」であり,呼吸器関連医師の多くがこの2つの疾患の診療と学問に取り組んでいった.
1960年から半世紀以上が経過した.自分がこの病院に着任してから四半世紀が過ぎた.あのころと比較して気づくのは,なんといっても肺癌と間質性肺炎の患者数の増加であり,また間質性肺炎とサルコイドーシスの病像の変化である.平成元年の日本の基準では,特発性間質性肺炎(IIP)といえば特発性肺線維症のことを意味していた. IIPという言葉を使ったのは日本のほうが世界よりも先であったが病理診断としてのUIPという言葉は認められていなかった.IIP(現在のIPF)だけであったところに,1990年にBOOP(COP)なるものが出現してからは,あちこちでBOOPの検討会が開催されて「これほどIPFと違う病気なのに,どうして以前は同じ病気として扱われていたのだろう」と不思議に思えた.当時はwandering pneumoniaを呈するBOOPがよくみられたものだが最近は減っている.BOOPの中にステロイドがBOOPほどには効かない下肺野優位の一群があるといわれるようになった.そのうち亜急性間質性肺炎(河端美則)やNCIP(non classifiable interstitial pneumonia)という言葉が提唱されたが認められず,KatzensteinのNSIPがprovisionalながら認められた.ATS/ERSの分類と定義は2002年にできて,いったん落ち着いたように見えたが2013年にまた改訂された.25年前にはきわめて珍しかった,ステロイドに反応する特発性間質性肺炎が日常よく遭遇するようになってきた.5年前にはHNCB(蜂巣肺)形成の無いUIP(原因不明であればかなりIPFになる)は珍しいとされていたが,最近では決して珍しいとはいえなくなっている.
この間質性肺炎の変化は,単に画像の解像度がよくなって,われわれ呼吸器内科医や放射線科医の見る目が肥えたからだけではない.病理医の見方が変わったからでもない.明らかに臨床で目にする病気の病態が変わってきていることを感じる.
サルコイドーシスの病像もこの25年で明らか変わった.無症状のBHL例は極めて少なくなり,全国統計でも眼や皮膚や心臓や神経などの他臓器病変例が増えている.
50年前の1960年と比べれば,もちろんもっと大きな変化である.
この変化はいったいどこからきているのだろうか.外因の影響もあるかもしれないがむしろ,原因となる物質に対する現代の人間の反応性が変わってきているからではないだろうか.昔は反応しなかったものに反応するようになってしまったから,早期に,かわった病像が形成されてしまう.そんなことを思っていると,最近はT細胞の働きに関連してそのような説もでてきているようにも聞く.その変化の度合いが最近はとても速いように思える.
外因に対する宿主の反応性の違い―これはきっと永遠のテーマなのだろう.自分が理解できる知能をもっているうちに誰かが解明してほしいものだと思う.
そんなことを考えているうちに,25年がたった.最近は学会でも病院でも山田嘉仁ががんばってくれている.河野千代子(平成9年卒)がよくそれを支えてくれている.平成26年4月からは山田嘉仁部長以下,河野千代子,鈴木未佳(広島),田中健介,直井兵伍(東大),東海林寛樹,宮下直也(千葉卒),川述剛士(沖縄),井窪祐美子と,千葉色の濃いかなり充実した布陣になる.これからは安心して彼らにあとをゆずり,行く末を見守っていたい.そして自分はもうしばらく,お世話になった病院の管理職に精をだし,多くの諸先輩から受け継いだサルコイドーシスと間質性肺炎のために微力をつくしていきたいと思う.
山口 哲生