教室・研究について

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教室沿革

熊谷 茂樹 教授(1882年4月~1884年6月)

 千葉大学眼科学教室の歴史は、明治15年にさかのぼる。同年4月に東京帝国大学第5回卒業の医学士・熊谷茂樹が千葉病院に来任し眼科の診療を受持ち、同年6月に千葉病院が改組され県立医学校となるに及んで熊谷は初代の教諭兼眼科医長に任ぜられた。このときを我が教室の誕生と言うことができる。熊谷は明治17年6月に在職2年余りで、厳父の懇望も出し難く退職して郷里山口県岩国に戻り、そこで病院を設立して(現在の岩国病院)医療活動に入り、また死刑囚の解剖なども行って近隣町村の医師を集めて教育もしていたが、肺疾患のため36歳の若さで永眠した。

荻生 録造 教授(1884年6月~1914年12月)

 熊谷の後任には医学博士荻生録造が着任した。県立千葉医学校はその後第一高等中学校医学部を経て、明治34年には千葉医学専門学校と改称され、荻生はその教授になった。翌35年には校長県病院長の要職に就いた。荻生は大正3年の12月に病没するまでその職にあり、在職期間は34年の長きにおよび、その間に眼科学の研究、診療に大きな業績を残した。同教授は法医学の教授も兼任し、長尾校長の補佐として第一高等学校医学部の千葉への設置に参画し、更には明治35年より13年間に亘って千葉医学専門学校校長の重責を担い、医学専門学校の運営と発展に尽力した。また日本眼科学会創設にあたり貢献する処は大であった。
 荻生教授の研究業績の主たるものは、ドイチェマン氏酵母血清の眼疾患治療への意義を唱道し、特に臨床実験によってその価値を確認した事である。これは本邦眼科学会における非特異的治療の先駆けであった。同教授の主たる仕事には蚕蝕性角膜潰瘍の病因論、トラコーマに関するもの等がある。荻生教授の門下からは多くの優秀な眼科医が輩出したが、その中にあって林角吉、鴻海蔵は長きにわたり教室に在籍し、診療、研究、学生の講義に当たった。

鴻 海蔵 教授(1915年1月~1919年4月)

 荻生教授病没のあとをうけて大正4年、鴻海蔵が教授に就任した。鴻教授は明治33年千葉医学専門学校の卒業と同時に荻生門下生となり、大正2年2月より翌3年11月まではドイツおよびオーストリアに留学、主として眼科細菌学を研究し帰国した。同教授は荻生教授の酵母血清に関する研究に協力したが、また、網膜における特発性結核について多大なる業績を残した。鴻教授は大正8年4月に退官した。退職後は千葉市内に開業、その後は千葉県眼科医会の会長を務め、県眼科医会発展のために尽力した。

伊東 彌恵治 教授(1919年9月~1954年1月)

 医学博士伊東彌恵治が鴻教授の後任として赴任したのは大正8年9月のことである。伊東教授は、東京帝国大學河本重次郎教授の逸材として聞こえ、当時漸く28歳であった。伊東教授は翌年には海外留学を命ぜられ、大正10年から13年までベルンの Ascher 教授のもと、およびベルリン大学で生理学・薬理学を研究して帰国した。
 伊東教授の海外留学中は鹿児島茂が来任した。鹿児島は母校千葉医専の出身で河本重次郎教授の下で研究していた。大正12年医専教授に任ぜられ、翌年伊東教授の帰国をもって退職し、外国留学後熊本大学の教授に就任した。鹿児島教授の在職は短期間であったが、残された仕事のなかで特筆されなければならないものに、千葉眼科集談会が大正10年に開催され以来70余年230回余の回数を重ね今日に至っている。なお大正3年には中村康が医専、ついで大学講師として来任し、昭和2年まで在任したが日本医大教授に転出した。
 伊東教授は留学から帰国すると、大正14年に「網膜電流知見補遺」という博士論文をドイツ語で半田屋より出版した。ちなみに、伊東教授は千葉医科大学の第一号の学位授与者である。そして当時大学に昇格してまだ日が浅かった教室の整備と拡充に非常に意を用い、各種の眼科器械と外国図書の購入に努力した。昭和10年に購入された Sattler 氏文庫は、ドイツの Sattler 父子が2代にわたって蒐集した眼科論文の別刷集より成り、1932年にいたるまでの英独その他のもの1万部に及ぶものである。現在も教室の誇るべき財産となっていて、千葉大学図書館亥鼻分館に収められている。伊東教授初期の研究の足跡を回顧してみると、それは欧州での研究に端緒を開いたイオン療法、網膜電流および瞳孔反応に関する薬理学的研究に始まった。イオン療法については基礎および臨床の両面において多くの実験が行われ、特に緑内障に対するピロカルピンのイオン療法は当時としては画期的なものであった。
 伊東教授は昭和5年には約半年にわたって再び欧州に出張し、各地の大学および研究施設を見学し帰国した。昭和10年前後の業績の中ではパーキンソン病の眼症状に関する研究は逸することができない。当時の佐々内科との協力のものに、本症の眼症状についてきわめて広範囲、かつ詳細なる検索がなされ、その業績は今日においても高く評価されている。 昭和11年には伊東教授に対する謝恩会として明徳会が発足した。当時教室には未だ同窓会が設立されていなかったことから、その意義は大であった。昭和12年には病院(現在の医学部本館)が完成し、研究・診療にも一段と発展がもたらされた。すなわち昭和15年4月には、第44回日本眼科学会総会が伊東教授会長のもと、新装まもない病院5階講堂で行われた。翌16年の熊本における第45回日本眼科学会総会において、伊東教授は「眼科領域における転調療法」と題する特別講演を行った。これは異種蛋白等の刺激療法の問題について、教室で再検討を行って結果をまとめたものであり、本療法の効果の本体を理論的に分析し、その価値判定に客観性を与えた。
 第二次大戦(昭和16年)が勃発してからの教室の研究は慢性軸性視神経炎と東洋医学の研究の2つが主体となった。慢性軸性視神経炎の問題は、当時の食糧事情その他の環境の悪条件下において、特に増加の著しかった軽症型の眼症状に関する研究に目標がおかれた。また東洋医学に関しては戦時下で眼科用薬剤にも事欠くことより、漢方の再検討に関心が持たれ、鈴木宜民教授により研究がなされた。当時外国図書の購入は全く不可能であったことより、教室では研究費の大部分を東洋医学の古書の購入にあてた。今日教室の数千冊にのぼる皇漢医書はかくしてその頃蒐集されたものである。また現在教室に保管されている千葉本の判が押されている約一千冊におよぶ古医書は、千葉県長生郡茂原の眼科医千葉彌次馬氏により寄贈を受けたものである。昭和20年6月には、戦火が日本本土におよぶにあたって、附属医専および病院の一部は長野県下伊那郡に疎開することになった。
 やがて第二次大戦が終局し、外地から帰還してくる者、また新たに入局する者もようやく増え、教室内は急に賑やかとなった。昭和21年6月には鈴木宜民教授が医専教授に就任した。敗戦後虚脱状態になった眼科学会も昭和23、4年頃よりようやく生気を取り戻し始めたが、教室における主たる仕事はトラコーマの集団治療にその重点がおかれた。当時サルファ剤眼軟膏のトラコーマに対する効果がアメリカで注目され、トラコーマの集団治療に有効であることが伊東教授によって初めて提唱され、教室の全員が各地に出張して集団治療の実施と指導に当たった。かくして本邦におけるトラコーマの治療法に画期的な転換がもたらされる糸口となった。なおトラコーマの病原体、封入体の問題にも研究の手がのばされた。
 昭和24、5年頃より少し健康を害していた伊東教授は、遂に26年6月に脳出血で倒れ、29年1月には休職し、30年12月をもって退官した。同教授は30数年の長い在任期間に、教室にあっては多くの教室員と共に立派な業績を残し、また大学の運営と発展に尽くした功績も極めて大きく、本学の歴史に偉大な足跡を残した。大学は多年にわたる伊東彌恵治教授の功労に報いるべく名誉教授の称号を贈った。これより先、昭和24年11月に鈴木宜民は助教授に、鴻忠義が医専教授に就任した。

鹿児島 茂 教授(1923年10月~1925年3月) ※第4代伊東教授の留学中

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鈴木 宜民 教授(1955年7月~1975年3月)

 昭和30年7月に鈴木宜民助教授が教授に昇任し、同年12月に鴻忠義医専教授が助教授に昇任したが、同助教授は31年5月をもって辞職し防衛大学教授に転任した。鴻助教授に代わって石川 清講師が助教授に就任した。
 鈴木宜民教授は日本眼科学会より球後視神経炎に関する宿題報告の分担を依嘱され、その成果を昭和32年第61回日本眼科学会総会において発表した。この宿題報告は従来最も問題とされていた本症の原因に対して、臨床的並びに実験的に検討を加えたものであり、伊東教授以来の教室の主要研究題目であった球後視神経炎の問題に一応の解答を与えようとしたものであり、教室の業績として特筆されるべきものとなった。
 トラコーマに関しては、鈴木教授は集団検診の問題より症侯名説を主張し、それを裏付けるための研究を臨床と実験の両方向より数年にわたって行っていた。また同教授は東洋医学に関心を持っていたため、眼疾患と全身との問題に着目し、教室の研究方向も主としてその方面に重点をおいた。すなわち球後視神経炎、葡萄膜炎、白内障、緑内障患者の肝および副腎機能、あるいは血清成分の問題について研究し、多くの業績をあげた。さらに高血圧・糖尿病に関する諸問題、網膜電流に関する基礎的、臨床的諸問題、眼圧・房水動態に関する基礎的、臨床的諸問題などが教室の研究の主体をなすものであった。特に高血圧と糖尿病は第二次大戦後になって注目されることになった全身疾患であり、石川助教授が中心となって広範囲に研究を行った。特に両疾患に網膜病変による診断と分類は同助教授が重点をおいた所であり、その成績は学会にて高い評価を受けた。また、伊藤教授に端を発する網膜電流に関する研究は窪田靖夫講師が続け、その後、現在の安達惠美子教授が脳、中枢まで研究を展開し、今にいたっている。
 昭和37年鈴木教授の提唱により眼科学教室同窓会が設立された。昭和11年に設立された明徳会をひろげたものである。これは今後の教室の歴史において記念すべき意義深いものとなった。また昭和40年7月鈴木教授開講10周年を記念して第151回千葉眼科集談会が開催され、岩手医大今泉亀撤教授、東京の井上正澄博士の特別講演が行われた。
 昭和43年には第19回日本東洋医学学会総会が、昭和45年には第71回日本医学史学会総会が、昭和48年に第27回日本臨床眼科学会が鈴木教授会長の下に千葉で開催された。同学会では、カリフォルニア大学のHoyt 教授が招待講演を担当した。
 昭和50年3月の第79回日本眼科学会総会において北沢克明講師が緑内障に関する宿題報告を発表した。この宿題報告は開放隅角緑内障の薬物治療について臨床並びに実験的に詳細に検討したものであり、本邦の緑内障の研究に多大なる足跡を残した。鈴木教授は昭和50年3月をもって退官し、その長年にわたる功績に対して名誉教授の称号が贈られた。

石川 清 教授(1975年5月~1984年3月)

 昭和50年5月に石川助教授が教授に就任した。石川教授は教授就任の翌年の昭和51年第80回日本眼科学会においてシンポジウムを担当し、糖尿病性網膜症における黄斑部病変とその対策について発表した。同発表は石川教授が鈴木時代より一貫して行ってきた研究の集大成で、同疾患の成因および光凝固法の臨床的意義に関して検討され新しい知見を示した。糖尿病性網膜症に関する研究は免疫学的・生化学的な基礎的研究より光凝固法・薬物による治療、さらには分類まで幅広いものであった。
 さらに、昭和55年の第84回日本眼科学会総会において、「糖尿病性網膜症の病態と治療」の特別講演をなし、会員に多大の感銘を与えられた。
 昭和53年には新病院が落成し、旧病院は医学部本館、研究棟となった。石川教授は教室の整備に心を砕き、眼科先端器械を拡充し、現在の診療体制の基礎を築いた。昭和55年5月第85回日本眼科学会総会が石川教授会長の下に千葉で開催された。さらに、昭和57年3月に第200回千葉眼科集談会の記念行事を行い、同年10月には眼科学教室開講百周年記念祝賀会が医学部5階大講義室において行われた。
 石川教授は昭和57年5月の第18回日本眼科光学学会会長を務めたのち昭和59年4月をもって退官し、長年の功績に対して名誉教授の称号が授与された。

安達 惠美子 教授(1984年5月~2003年3月)

 昭和59年5月安達惠美子助教授が教授に就任した。国立大学臨床系における初の女性教授誕生である。安達教授は昭和60年5月第23回国際臨床視覚電気生理学会(ISCEV)において「Facial and scalp field distribution of pattern evoked response in multiple sclerosis」の特別講演を行った。昭和61年6月に第3回関東眼科学会が安達教授会長の下で千葉で開催された。同教授は昭和63年7月ドイツ連邦共和国官邸(ボン市)にてウァイツゼッカー大統領よりシーボルト賞を授与された。これは日独の文化交流に貢献した学者に毎年一人に授与される賞で、1978年に設立された。このうち臨床医学の領域では2人目で、女性として初めての受賞であった。名誉ある業績の一つとして教室の歴史に残るものである。
 平成元年5月、第93回日本眼科学会総会の宿題報告で安達教授は「目の老化―視機能老化の客観的評価―誘発電位の語るもの」を発表した。この宿題報告は眼 、脳も含めた高齢者における視覚の機能について、視覚誘発電位を指標として評価した結果をまとめたものであり、高年齢化社会となっていている現代における老化の問題に大きな寄与をした。また平成2年3月の国際眼薬理学会において、 「Effect of dopamine on ERG and VECP in Parkinson's disease」と題する特別講演を行った。教室の研究は、視神経疾患網膜疾患に関する電気生理学的な研究が主体であるが、安達教授は組織学的な研究にも関心を持って進めていたため、平成2年4月弘前大学助教授木村 毅が助教授として転任して以来、その方面の研究に関しても多くの成果があげられている。
 安達教授の福祉事業に対する業績も多大である。赴任早々、千葉県にアイバンクが無いことを憂い、昭和60年千葉県アイバンク協会を財団として設立した。角膜移植のため、昼夜を問わず、角膜提供者への医局員の派遣に努力された。
 平成7年(1994年)には国際網膜色素変性症協会(IRPS: International Retinitis Pigmentosa Association)の日本支部(JRPS: Japanese Retinitis Pigmentosa Society)を設立し、千葉大学眼科に事務局をおき、学術理事長として活動した。8年余に渡る熱心な国内外での活動により団体の内容を充実させ、2002年8月には、第12回国際網膜世界会議を主催した。アジア地域では初めての開催であった。その功績により、国際本部会長 Fasser 氏より賞状が送られ、また教室員一同の福祉活動は国際的にも評価されている。この間、平成10年1月に木村 毅助教授が退官し開業された。平成12年に、後任として藤本講師が助教授に昇任した。
 安達教授は、学術関係では国際臨床視覚電気生理学会副会長、理事として18年活動している。また昭和61年より厚生省特定疾患網脈絡膜調査研究斑の班員として活躍した。
 そのかたわら、Vision Reserach, Clinical Vison Science, Documenta Ophthalmologica など国際誌の編集委員を務めるなど国際的にも活躍した。学会活動も、平成5年に第31回国際臨床視覚電気生理学会会長、平成8年に第36回日本神経眼科学会会長、平成11年に第103回日本眼科学会総会会長、平成14年には第12回国際網膜世界会議・第50回日本臨床電気生理学会会長などの重責を果たした。
 教室の特色ある研究結果は、平成元年の第93回日本眼科学会総会の宿題報告「『眼と老化』 視機能老化の客観的評価―誘発電位の語るもの―」に続き、平成12年第104回日本眼科学会総会の特別講演において「視神経炎―診断から視神経移植まで―」を担当、電気生理学的検査、画像診断から、視神経移植に至る視神経に関する当教室の集大成ともいえる講演を行い会員に感銘を与えた。これらはすべて、教室における網膜・視神経の機能研究の発展へ繋がっている。その翌年の平成12年11月には日本医師会医学賞を授賞した。臨床面の発展もめざましく、常勤の関連病院は28と拡充し、医局員100余名と年々増加し、硝子体、網膜手術から、形成、眼腫瘍手術、角膜移植等全てを網羅するスタッフが育成され、年間1000件余りの手術件数を数える。
 安達教授は平成15年3月をもって停年退官し、退官記念祝賀会がホテルニューオータニ幕張において、盛大に催された。また長年の功績に対して名誉教授の称号が授与された。さらに同年、紫綬褒章受章、日本女医会吉岡弥生賞受賞の栄に浴し、千葉大眼科はお祝い続きとなった。

山本 修一 教授(2003年4月~)

 平成15(2003)年4月、安達教授の後任として、東邦大学佐倉病院眼科教授の山本修一が着任した。山本は昭和58年、石川清教授時代最後の入局者であるが、教授としての初仕事は、奇しくも着任5日前に逝去された石川名誉教授のご葬儀であった。
 翌16年からは、国立大学法人化と初期臨床研修必修化が予定され、教室を取り巻く環境の激変がすでに予想されていた。この大波を乗り越えるべく、教室のミッションを「最高水準の眼科医療を提供するとともに、最高水準の医療を提供できる眼科医を育成する」と定めた。そして、千葉大学、富山医科薬科大学、東邦大学と様々な眼科医局での経験を活かし、教室の方針を臨床、特に手術重視に大転換し、年間の手術件数は一挙に1300件を超えた。しかし、独法化前の附属病院はそのような急激な変化に十分対応できず、診療経費や手術件数の急増にクレームが寄せられ、就任1年目から難しい舵取りを迫られた。
 診療面では、圧倒的に需要の高い網膜硝子体疾患と緑内障を中心とする大規模な改革が進められた。網膜硝子体はさらに細分化させ、糖尿病網膜症、加齢黄斑変性、網膜静脈閉塞、網膜変性の専門外来を立ち上げ、全国的にも例を見ない体制とした。他に、緑内障、ぶどう膜炎、角膜疾患、斜視弱視の専門外来も立ち上げ、subspecialtyを重視した診療体制となった。病床数や手術枠は従前通りであったために、入院期間の大幅短縮、網膜硝子体手術の局所麻酔化を進め、眼科の平均在院日数を7日以内に短縮した。また外来患者数がかつては年間60,000名に及び、これによる診療内容の希薄化が懸念されたため、近隣の医療機関の協力得て、新患は紹介状を必須とし、病診連携を強力に推し進め、平成16年には42,000名までに圧縮、外来・入院での診療の高度化を達成した。平成22年度の年間手術件数は2,157件(附属病院の総手術件数の31.9%)、年間外来患者数は新来3,478名、再来37,498名であり、関東はもとより全国から紹介患者を受けている。
 また人事面では、新入医局員の激減と女性医局員の増加を受けて、関連病院の集約化を進めた。安達教授時代には毎年10名前後の新入医局員があり、関連病院は関東一円に拡大した。しかし平成15年は4名、その後2年間は初期臨床研修施行のため他施設からの移籍だけとなった。平成18年以降、初期研修を終えた世代の入局が期待されたが、かつての眼科入局バブルは全国的に弾け、千葉大眼科への新入医局は平成18年が3名、19年4名、20年1名、21年2名、22年3名と、5年間で計13名であり、そのうち男性はわずか3名となった。このため関連病院の再編成を行い、病院の規模が大きく患者数の多い国立国際医療センター、国立千葉病院、成田赤十字病院、君津中央病院、船橋中央病院、松戸市立病院を基幹病院とし、大学に準じた診療が行えるよう人員配置を行った。また女性医師の派遣の難しい千葉県外からは撤退を進め、県内の集約化した。これにより平成15年には30あった常勤派遣病院は、平成22年は21に減少した。
 この間、平成16年に溝田淳講師が順天堂浦安病院助教授に栄転、さらに平成21年には帝京大学本院の眼科主任教授に就任した。また平成18年には水野谷智講師が帝京大学ちば総合医療センター眼科教授に就任した。教室の活性化を図るため、他大学からの人材登用にも努め、三田村佳典助教授が札幌医大から、菅原岳史講師が岩手医大から、馬場隆之助手が東京医科歯科大学から教室加わった。なかでも三田村准教授の活躍は目覚しく、平成22年にはめでたく徳島大学眼科教授に栄転を果たした。
 研究面では、毎年数名がコンスタントに大学院に進学している。当初は基礎系教室に指導をお願いすることもあったが、近年は大半の院生が附属病院で臨床を行いつつ、豊富な網膜疾患の臨床データを基にした臨床研究で学位を取得している。多忙を極める臨床の中で研究をまとめることは、院生にとってかなりの負担となっているが、臨床面で遅れをとらないというメリットはある。その一方で、じっくり時間を掛けて一つのテーマに取り組むという研究者としての育成の機会は失われつつあり、今後の課題となっている。学会関係では、平成19年11月に千葉で第48回日本産業・労働・交通眼科学会を、平成20年9月に東京で第56回日本臨床視覚電気生理学会を主催した(第44回日本眼光学学会総会と同時開催)。平成23年12月には東京で日本眼循環学会を主催予定である。
 このように比較的順調に教室の改革と発展が進んできているが、将来への課題は山積している。高齢化社会の進行によりQOL維持のために、高度な眼科医療への需要はますます高まっている。地域医療への責任もあり、大学および関連病院により重厚な人員配置が要求される。その一方で、眼科への入局者急増は見込めず、教室員の半数以上を占める女性医師には、結婚・出産・育児・家庭とのバランスをとる必要がある。若い教室員には高度な診療能力の獲得だけでなく、研究者としての経験や海外留学の経験も重要である。道は険しいが、就任当初に定めたミッションを忘れずに、眼科を楽しめる・面白がる医師を一人でも増やし、社会に貢献してゆくチーム作りを行っている。
 可能な限り治療法の開発や改善にチャレンジしながら、現在できる最大限の医療を常に提供する。「最高水準の眼科医療を提供するとともに、最高水準の医療を提供できる眼科医を育成する」の道しるべは普遍である。