千葉大学 大学院医学研究院 和漢診療学講座

和漢診療学講座について

第三回 和田 正系先生

和田 正系タイトル画像

<生い立ち>

1900年(明治33)1月12日、和田啓十郎、妻せんの長男として、長野県更級郡稲里村に生まれる。父啓十郎は、明治期の漢方衰退の中、『医界之鉄椎』を著した日本漢方医学復興の先駆者として知られる(和田啓十郎の略歴)。
和田正系は、7歳で父に伴い東京へ転居。日本橋浜町で育った。日本橋区立浜町小学校、東京府立第一中学校(現在の日比谷高校)に進む。16歳の時、父が45歳で死去、その際、病床で父が経験した漢方治療の核心を枕頭にて口述筆記する。さらに葬儀一切を取り仕切った。その後、家族が郷里長野市に移る中、和田は一人、父が懇意にしていた神道禊教教会に下宿した。信者とともに礼拝し、粗食に耐え、ひたすら勉学の日々で、「この時から自分は虚無的になった」と後年、娘の燿子に語っていたという。
内科医であった父の影響で、少年時代から医者を目指していた和田は、1917年、千葉医学専門学校(現在の千葉大学医学部)へ進学する。内科をやるには基礎医学として生理学を学ぶ必要があると考え、医者になるとすぐに母校の生理学教室に残って助手として研究することにした。「生理学は生きる原理、すなわち生命を研究する学科である。私はこの生理学に非常に興味をもっていて、内科学をやるにはぜひその前に生理学を勉強せねばならぬと思ったのである」と語っている。1922年、千葉医学専門学校医学科卒業後、酒井卓造教授(生理学)に師事し、助手として研究に勤しむ。1923年、千葉大学医学部助手となり、生理学教室および内科学教室において研究に励んだ。この時期、東京帝国大学医科大学(現在の東大医学部)の橋田邦彦教授からも薫陶を受ける。
1925年、千葉県安房郡富浦町にわが国初の試みとして創設された日本赤十字社千葉支部附属の虚弱児童養護学校「富浦海浜学校」に赴任し、富浦町多田良に移り住む。1929年、母校である千葉大学の生理学教室に戻り研究。1933年、「腸管に於ける食塩並びに水分の吸収」に関する研究で医学博士を受ける。同年、再び富浦海浜学校へ戻るとともに、富浦に居を移し、医院を開く。
1939年より富浦海浜学校長、校医を兼務し、1945年3月の閉校まで勤め上げた。

<漢方家>

和田が生理学教室の第一助手をしていた1932年、父の『医界之鉄椎』が春陽堂から再販され、これを漢方に興味がありそうな指導教授や先輩、同僚に献本した。すると、漢方を研究したいという希望者が現れはじめ、翌年、学位を受けて卒業するにあたり、自らも本格的に漢方を学ぶことにした。
和田は奥田謙蔵(第1回奥田謙蔵先生の項参照)の門を敲く。その際、奥田から「あなたのおいでは、早くからわかって居ました。啓十郎先生がおよろこびのことでしょう。共々に、啓十郎先生の御跡を往きましょう」と言われたという。奥田の奥方が陰陽道に通じており、ある朝「近々、南の方角から、漢方を学ぶに熱心な若者が一人現れますよ」と告げた。それが房総から訪れた和田だったのである。奥田門下に入ると、同志を集めて奥田宅で毎週講義を聴いたり座談会を開くなど、その薫陶を受けつつ、東洋医学に対する啓蒙活動を一層強化していった。「奥田先生と和田先生は、漢方家としての正しい生き方を示そうというお考えが一致していました。とても仲が良く、ほほえましい師弟関係でした」と弟弟子である鍋谷欣市は振り返る。後年、和田は奥田謙蔵の雅号「公圭」の一字をもらい「南圭」と称している。
奥田に入門したころ、和田は「ひっそりと、しかし、じっくりと、一人、漢方をやろう。辺地に行こう」と決心したという。たまたま、虚弱児童養護学校「富浦海浜学校」(後述)の校医として赴任したことが、その後学位取得のために四年間千葉に移り住んだ以外五十余年、安房郡富浦町に住まうきっかけとなった。

余談であるが、父・啓十郎と、その弟子であり、彼の遺志を継いで今日の漢方の礎を築いた湯本求眞との交わりは、生涯一度もまみえることはなかったものの固く、その子正系が湯本求眞を師に選ぶことは当然と思われた。しかし、漢方勉学の熱情に燃えた和田が、本郷の湯本求眞の門を敲くも、「漢方なぞという古くさいものをアンタ、本気で勉強する気か。くだらん。全くもって笑止千万、近く必ず滅亡する。何故それが、わからんのか」と言われ、打ちひしがれた姿で帰宅したという話を母から聞いた、と燿子は回想している。のちにも、この時の情景については、生涯一言も語ることはなかったという(『多田良抄』)。

学位を取得したのち再び富浦海浜学校に戻って以降の和田は、腰を据えて漢方に励んだ。このころから、朝の出勤前、昼食後のわずかな時間の宅診、夕刻から夜間にかけての往診を毎日行うようになったという。日曜、祭日には早朝4時の館山始発の列車で片道四時間かけて上京し、漢方の勉強に励んだ。

1950年(昭和25)日本東洋医学会創設の発起人となる。学会準備委員会委員11人のメンバーとなり、勧誘活動や創立総会の準備に携わった。1952年、千葉大学医学部講師(医史学)、1955年には日本東洋医学会理事長となる。同年、奥田謙蔵門下の「奥門会」発足。1956年には日本東洋医学会学術総会会長(2代目)を務める。1962年、日本医史学会評議員、淑徳大学教授となる。1979年、日本医史学会名誉会員。同年6月11日未明、自宅庭にて倒れ、7月15日、脳軟化症にて館山市小林病院にて永眠。享年七十九歳。戒名は「法謚正徳院系誉仁術啓道居士」。墓所は富浦町にある長福寺(南房総市富浦町多田良34)にある。郷里、長野市松代町にも分骨された。
「葬式無用論」を唱えた和田の意志に従い、全国から送られたお悔みや香典の返送に一年近くかかったという。

千葉・長福寺の和田家の墓
千葉・長福寺の和田家の墓

富浦海浜学校

富浦海浜学校で診察する和田の写真
富浦海浜学校で診察する和田の写真

千葉医専(現千葉大学医学部)卒業後同大学助手勤務中、恩師・酒井教授の白羽の矢により、1925年、当時我が国初の試みとして創設された日本赤十字社千葉支部附属の虚弱児童養護学校「富浦海浜学校」の校医として赴任、1939年には富浦海浜学校校長を拝命、翌年第二次世界大戦終了、敗戦、廃校となるまで、専心その経営にあたった。1年生から6年生まで60人の全寮制で、子供たちの身体の治療はもちろんのこと、遠くは樺太、台湾あたりからも集い、両親と離れ淋しい子供たちの心の支柱となるべく心を砕いた。「先生の温顔愛語こそ、実に私共の心の支えであった。お医者さま、としてだけでなく、心の父であり、人生の師であった」と多くの修了生から感謝されたという。

子供たちと写る和田の写真
子供たちと写る和田の写真(後列左から6人目が和田)
→鍋谷欣市氏提供

和田は病児たちに、桂枝湯、小柴胡湯、半夏厚朴湯、苓甘姜味辛夏仁湯などの漢方(煎薬)をよく使い、効果を挙げたという。戦争末期の食糧難や個々の家庭の事情など様々な悪条件の中、虚弱児童の養護教育について最後まで努力した。秋葉哲生は、「海浜学校の校医としての経験からある種の確信を得たに相違なく、学位を取得したこともあって奥田謙蔵という信ずるに足る道を選ばれたのだ」と想像している。

千葉大学東洋医学研究会との関わり

和田は千葉大学の生理学教室内でたびたび漢方について講演し、学内一般に公開されていた。1938年4月22日に行った「漢方医学の概観」という講演会を、藤平健と同級であった長濱善夫が聴き、感銘を受けたことがきっかけとなり、翌年、大学内に「千葉医科大学東洋医学研究会」が結成された(第2回藤平健先生の項参照)。
1947年6月10日の「東洋医学自由講座」発会式以降、講師として、たびたび講義や講演を行うなど、長きにわたり東洋医学研究会を側面から支えた。寺澤捷年が学んだ当時(1965年)、和田の著書『漢方治療提要』(1962年出版)が教材として使われていたという。
部員が毎年正月になると、富浦の和田を訪ねるのが慣例であった。部員が訪れると、書斎の書籍の山の中で、医学や歴史、文化に至るまで、丁寧に語って聞かせたという。

日中、日韓医学交流

1966年、66歳の時、中華人民共和国の中華医学会より招待を受け、日本漢方医薬学術第一次訪中使節(2名のみ)として3月~4月にかけて滞在した。漢方医学の研究者として中国医学の現状を見学することを目的とし、中国各地の大学、研究所、病院はじめ、人民公社、教育施設、監獄にいたるまでをつぶさに視察した。当時、まだ国交回復前であり、初の日本漢方界代表として、関係各界の要人と親しく交歓し、日中医学交流に尽くした。
その時詠んだ句
上弦の月落ちむとす 着陸のかたむく窓に北京飛行場
は、朝日歌壇の宮柊二氏選で第一作に選ばれている。
また、1971年には韓国へと赴き、専門家に会うなど同国における漢方の実際を見聞し、友好親善のため尽力している。

治療方針

和田はインタビューの中で、「いやしくも漢方をやるなら、たんに一つの肉体的な症状を治すということだけでなく、更に深く生命とか生活を治すとか、あるいはもっと大きく社会保健の方法とか、人間幸福の問題とか、老人問題とか、そういったところまで入り込む気構えで行かなければならないと思います」と話し、「漢方をやる人は、医学の革命者であり、開拓者であるという心構えが必要」と語っている。
和田は、漢方治療にあたり、『傷寒論』『金匱要略』を基礎とする古方派の立場に立った。父啓十郎は激しい古方派的な漢方を使ったが、全面的に後世派を否定しておらず、自らも使用したという。時として、現代医学の方剤も併用し、感情的に好き嫌いを示すことはなかったという。和田も同様であり、自らをどちらかというと折衷論者だとし、最善を尽くすためには、漢薬を与えながらも必要な時は現代医薬を使っても一向にさしつかえない、と語った。「漢方医はむかしのように自分で納得の行くように調合、調剤すべき」とし、「たとえめんどうでも自分でサジをとって調剤していると、その間に、反省をしたり、病状を考えたり、いろいろなことがあって、そのひとときは医者と患者との間をつなぐ大事なひとときだと思うんです」と語っている。

<風雅な文人>

和田先生画像
和田先生(1965年ごろ)

和田は診療の傍ら、趣味の域を超えた芸術そのものに生きる日々を送った。あらゆる知識と教養とを身に着けており、漢方界きっての教養人として敬仰された。その人柄と幅広い教養を慕って、漢方家のみならず、各界一流といわれる思想家、宗教家、文人墨客が「静処草堂」と名付けた書斎を訪れ、酒を飲みながら語り明かしたという。
短歌については、小学校時代より作歌を始め以後70年。家中に鉛筆とメモ用紙を置き詩歌が浮かぶと真夜中でも書き留めたという。歌集『多田良』も出版している。音楽については、府立一中時代から、音楽の師・梁田貞氏より目を開かれ、千葉大時代にはレコード収集に凝り、寸暇を惜しんで聴いた。世界的音楽家の来演には可能な限り足を運び、「単に耳から入るだけではないんですね。目からも入り鼻からも入り、皮膚からも入る」と記している。鍋谷は、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」の貴重な原盤を、蓄音機で聴かせてもらったという。書道は、府立一中時代は日下部鳴鶴、その後柳田泰雲について習い、毎朝必ず30~40枚書くほどの打ち込みようだった。「風格のある素晴らしい字でした」と鍋谷も振り返る。絵画は、一日一枚、四季折々の草花や魚類、寺社などの淡彩画に精を出した。茶道は、作法のみならず、その歴史、果ては茶花、道具と進み、華道にいたるまで知識を広げる徹底ぶりだった。
また、信仰も厚く、法然上人を尊崇し、のち空海に傾倒した。仏教に傾倒したのも、そもそもは仏教美術の鑑賞が入口であったが、難治の肺結核患者を多数抱え、患者の苦しみに自らも煩悶した時期から、仏教そのものを求めるようになり、仏書をむさぼり読み、徹夜も辞さず学者に教えを乞い、法然上人に帰依したのであった。『法然上人の人と宗教』という著書もある。
その知識の源である読書は「生命そのもの」といえるほどで、時間と金のあり次第、ジャンルを問わずあらゆる本を求めたという。

<人柄>

「功名誰復論」の書
「功名誰復論」の書

常に側に寄り添った娘の燿子は、和田について、大の照れ性ではあるが感受性は深く濃く、ロマンチストで、貧乏性ゆえに華やかなことを嫌い、一人を好んだ、という。「人間世界のあらゆる面に美を求めた」とも記している。ただし、患者や学生に対する態度は実に丁寧で濃やかであり、多くの人から慕われていた。戦後の一時期などは、遠方から来る患者の多くと、草堂書斎にて茶菓や食事を共にし、病気の話だけでなく家庭生活、趣味、人生論などを交わしたという。とくに若い学生とは、まる一日つぶして対談した。「すべては治療につながる。否、治療そのものなのだ」(『多田良抄』)
晩年は、心を込めて、少しの患者を診た。遠方の患者には惜しみなく激励と慰めの手紙を送ったという。和田を知る人は、温厚篤実で笑顔を以て人に接し、表に立つことを嫌い、人のためには己を捨てても尽くす、などと評している。
和田は自らを「コロボックルの子孫」と称するほど非常に小柄であったが、「眼光が鋭く情熱的で、その講義には強い感銘を受けたものです」と、千葉大学で講義を受けた鍋谷は振り返る。温和ながら、内には強い信念を秘めており、邪道を許さぬ正義感で、父・和田啓十郎の気質を継いで「人生意気に感じては功名誰かまた論ぜんや」の気概を持っていた、と鍋谷はいう。
富浦の和田医院には、「和田」という表札だけが掲げてあり、医院とわかる看板がなかった。それでも患者は集まってきたという。本気で漢方治療を希望する患者のみをじっくり診る、という意図はもちろん、何事もひけらかすことを嫌う和田らしいこだわりであろう。

<和田啓十郎顕彰碑建立>

1978年10月、寺師睦宗の尽力により、父和田啓十郎の「顕彰会」記念式典が行われたが、和田は両足の衰えにより欠席した。このころ、『和田啓十郎遺稿集』の校正に心を砕いた。
黒御影石の「和田啓十郎顕彰碑」は、啓十郎が『医界之鉄椎』を執筆した家にほど近い、東京都中央区日本橋浜町の自然公園内に立つ。

和田啓十郎顕彰碑

和田啓十郎顕彰碑 碑文
和田啓十郎先生は漢方医学が
まさに絶滅せんとしたとき
この地において衣を薄くし
食を粗にして得たる資金を以て明治四十三年
醫界之鐡椎を自費出版し
漢方医学の復興に起ち上った
今や漢方再興の気運に際会し
先生の旧跡に碑を建て
その偉業を顕彰するものである
昭和五十三年十月十日
日本東洋医学
会東亜医学協会
日本医史学会
撰 寺師睦宗
  大塚敬節
書 矢数道明

著作

  • 『心身一如』鹿野苑、1956年
  • 『法然上人の人と宗教』鹿野苑、1961年
  • 『漢方治療提要』医道の日本社、1962年
  • 随筆『草堂茶話』医道の日本社、1978年
  • 『和田啓十郎遺稿集』医道の日本社、1979年
  • 随筆『草堂茶話』第二集 医道の日本社、1979年
  • 『医界の鉄椎を巡りて』(和田啓十郎先生顕彰会)
  • 随筆『枇杷の町』医道の日本社、1980年
  • 歌集『多田良』医道の日本社、1981年

〈取材協力・資料提供〉

鍋谷欣市(昌平クリニック)

〈取材・文〉

山田真知子

〈参考資料一覧(順不同)〉

  • 『和田啓十郎先生顕彰記念文集 “医界之鉄椎”を巡って』1979年 
  • 『随筆 枇杷の町』和田正系 医道の日本社 1980年
  • 『歌集 多田良』和田正系 医道の日本社 1981年
  • 『多田良抄』和田燿子 医道の日本社 1985年
  • 『千葉大学東洋医学研究会三十年史』1969年
  • 『千葉大学東洋医学研究会五十年史』1990年
  • 『千葉大学東洋医学研究会六十年史』1999年
  • 『漢方開眼 わが師・藤平健先生』寺澤捷年 医聖社 2014年
  • 『漢方無限――現代漢方の源流』矢数道明・坂口弘纂 緑書房 1992年
  • 『近代漢方総論』遠田裕政 医道の日本社 1998年
  • 『日本東洋医学雑誌』第43巻第3号 1993年
  • 『漢方の臨床』第1巻1号、第1巻3号、第1巻4号 1954年(半夏瀉心湯治験)和田正系
  • 『漢方の臨床』第21巻8号 1974年(和田正系博士訪問の記)気賀林一
  • 『漢方の臨床』第54巻10号 2007年(南圭和田正系先生と富浦海浜学校)秋葉哲生
  • 『日本東洋医学雑誌』第63巻第2号 (『医界之鉄椎』から一世紀たって)寺澤捷年