千葉大学 大学院医学研究院 和漢診療学講座

和漢診療学講座について

第四回 小倉 重成先生

小倉重成先生は、千葉大学卒業後入局した眼科の医局で藤平健先生と同門であったため、漢方を深く学ぶこととなります。小倉先生は今も続く学生サークルである千葉大学東洋医学研究会の学生指導に、藤平健先生とともに、亡くなられるまでボランティア活動として献身的に、尽力されました。かく言う私も、その教えを学生時代の6年間を含めて、自由講座の講義(繰り返し傷寒論を通読しました)や漢方外来(自由講座前の大学での外来、休み期間の通いでの小倉眼科医院での外来)見学で、漢方治療の基礎を教えていただきました。学生指導以上に小倉先生は、傷寒論の処方を中心とした漢方治療に、今では必要性が認識されている食事療法(野菜中心の和漢食)と運動治療を組み合わせることで難病治療に挑みました。また、入院治療での漢方治療の可能性を広げるとともに、難治疾患の病態からヒントを得て、「潜証」という病態を提唱されました。このように、小倉先生の業績は多岐にわたります。さらに、小倉先生は、何においても一つのことに邁進する実直な真直ぐなご性格であったように思います。個人的な印象ですが、そのため、多くの学生・医師に熱狂的な弟子や私淑した方が多かったように感じます。小倉先生を我々はこの千葉大学大学院医学研究院和漢診療学を間接的に作られた中心的な先生と考えています。
今、ここに小倉先生の略歴と漢方の道を真摯に歩まれた足跡を、多くの漢方を学ぶ方々にご理解いただけるようにできたことは感慨深いものがあります。最後に、取材にご協力いただいたみなさま、特にご親族の小倉文子様には秘蔵写真などを使用させていただける許可をいただきましたことに感謝を申し上げる次第です。

平成27年1月吉日
千葉大学大学院医学研究院和漢診療学・並木 隆雄

小倉 重成タイトル画像

<生い立ち>

小倉重成


1916年、千葉県公平村家ノ子(現東金市)で、鍼灸師の父・小倉梅太郎と母・せいの間に生まれる。少年期には、自宅から4kmほどの九十九里浜で海水浴をしたり、貝を捕ったりするなどして遊んだ。
東金市公平小学校、千葉県立成東中学校を経て、1935年(旧制)松本高等学校へ入学。高校時代は学費を出してくれた兄・康次郎の恩に報いるため、一心不乱に勉学に励んだ。平日も休日も学校へ通い、寄宿舎と学校との間の道のり以外にはどこも知らなかったという。遊ぶことに罪悪感を抱いて極端に勉強のとりこになり、小さな目覚まし時計を手拭いで頭にくくりつけてまで睡眠時間を短縮したが、それでも目が覚めない事もあるため、終夜机に向かったままという日を続けた。結果、不眠が高じて神経衰弱になり、1カ月間休学することになった。しかし一命を落としかねなかったこの「失敗」から、その後勉強の仕方を大きく変えて、三年の三学期には首席の成績を残している。
人のためになりたい、人の病を治したいとの思いから医師になることを決めて、1938年、千葉医科大学(現千葉大学)へ進学。1942年9月に卒業し、眼科学教室教授・伊東彌惠治のもと、同校付属病院眼科副手として医局研修を行う。眼科を選んだのは、自身が隻眼であったことからだと思われる。1944年に木更津協同病院眼科勤務となり、1945年3月、応召され佐倉連隊にて眼耳鼻科配属の軍医となる。
終戦後まもなくの1945年12月、医局研修時代に「さわやかで明るい印象」を強く受けた港町、木更津で小倉眼科医院を開業。最初は駅前のそば屋の一角を借りて診療を始め、1948年には駅から1分の旅館を改造した建物に移って、入院病床を作る。のちに医院は1965年に、駅から徒歩10分の場所に移転した(木更津市朝日1-8-17)。この間、1957年7月に「ビタミンB1と肝機能障碍、尿沢田反應、二十四時間尿中、ピルビン酸チセリウス法による蛋白電氣泳動像との関係」の論文で医学博士を取得。
開業後に、大学眼科医局の2年先輩である藤平健の勧めで奥田謙蔵門下となり漢方を極めていく。やがて、漢方でも治らない難病患者に対して、食養と運動にこだわりを持って治療をするようになる。
漢方界での活動としては、日本東洋医学会で理事、評議員のほか、1983年5月の第34回日本東洋医学会学術集会では会頭を務めた。また、関東鍼灸専門学校では初代校長となる。
私生活では1942年に小竹時子と結婚するが、時子は心臓弁膜症を患い1963年12月に死別。診療所の手伝いに来ていた姪(姉・永の娘)の佐々木文子を養女に迎える。 1988年1月10日、木更津市内の旅館「観月」で行われた初謡の会に出向き、脳出血で倒れて帰らぬ人となった。1945年に開業してから亡くなる日の午後3時半まで、43年間、「町医者」として患者に寄り添い難病に取り組み、患者への指導を自らも実践し続けた、純粋で信念を貫いた72年の生涯だった。法名は、覚厳院法温日成居士。なお小倉家の墓は、妻時子逝去の折に九十九里から移して、木更津市営矢那霊園(8区8側)に建立したもの。ひときわ目を引く墓石は小倉が本千葉から取り寄せたもので、墓碑銘には小倉が書いた文字が刻まれている。

墓石墓石

<漢方医学の追究>

眼科医局時代より、治せない病気が多いことに驚き失望し、医師をやめようかと懊悩したこともあったが、佐倉連隊時代に軍医の所持する中山忠直著『漢方医学の新研究』を読んで漢方医学の存在を知り、光明を得ていた。
そして小倉眼科医院を開業後も、ブドウ膜炎などの重症患者に難渋していたところ、藤平健から尾台榕堂の『類聚方広義』を勧められて読み始める。また千葉市で藤平が開業する藤平眼科に自分の患者を連れて行き、診療の実際を習うようになる。
しばらく小倉に指導した藤平は、その熱意と習得の早さに感嘆し、藤平の師で傷寒論研究の第一人者である奥田謙蔵の「奥門会」に参加することを勧める。奥門会に入会した小倉は、奥田に絶えず質問を発し続けながら熱心に学び、漢方診療の腕を上げていった。奥門会では機関誌『古醫學研究』(同誌休刊の後は『漢方の臨床』)誌上にて「漢方研究室」を担当。その他、治験を主とする論文および医学のあり方に関する論説など多数を発表し、中でもベーチェット病を中心とする難治性疾患に関する論文が注目された。小倉は奥田に教えを受けた古方を最後まで貫き、「傷寒論」「金匱要略」以外の処方は、十全大補湯と腸癰湯しか用いなかったという。
小倉眼科医院には全国からの患者が集まってきており、入院患者は常時14~5人で、ほぼ満床だった。この「入院患者に漢方治療を実践した」ということは、漢方医学の発展に大きな意義がある。入院患者の治療は重症かつ緊急性があり、常時対応を迫られて“逃げ道”がない厳しいものであるが、入院で治療できてこそ漢方であり、また腕も磨かれていくと小倉は考えていた。
会社勤めの人でも出勤前に受診できるようにとの配慮から、医院での診療は朝7時から開始。午後3時過ぎまで行い、1日の診療の終わりには毎日、従業員に「ありがとうございました」と几帳面にお辞儀をして感謝を表した。医院近くに製鉄所ができてからは、鉄鋼作業により鉄粉が目に入ったり電気性眼炎になったりした急患が深夜に訪れることもしばしばであった。しかし、周囲が小倉の健康を心配しても夜間患者を断らずに対応にあたったといい、小倉の実直な性格がうかがわれる。

鍼灸と鍼灸の統一診療、「潜証論」

小倉は、鍼灸師・西澤道允の教えを受け、診療に鍼灸治療も巧みに応用して効果をあげていた。湯液と鍼灸との統一診療は、小倉の大きな功績の1つである。漢方を学び始めてから10年で脈診を会得し、20年経って漢方で治せる自信を持つようになったが、1980年頃から、附子剤や烏頭剤が奏効する症例や、これまでの四診により選んだ薬方では治せない症例が増え始めたという。そして、経済の高度成長に伴う生活様式の激変から、運動不足や冷房、冷蔵庫、甘味飲料、美食などによる極端な虚寒証が多発していることに気づく。
西澤の開発した豆電球式の「電気温鍼法」は、腹臥位の患者の左右の脾愈、胃愈、腎愈、志室に置針して、その上から多数の豆電球がついた温熱器で覆って温める。温補治療としても有効であるが、治療診断に用いることができ、それが「潜証論」の確立に大いに役立つことになる。すなわち、患者が「熱い」と感じるまでの時間の長短から、脈証や腹証からは陽実証ととれる患者に虚寒証が併存しており、四逆湯類が奏効することなどを見いだして「潜証」として1980年代頃から提唱するようになるのである。
藤平はその頃「併病論」を提唱しており、小倉が「潜証」という新しい言葉を使うことをよしとせず、学問上で正面からの論争を繰り広げた。1987年日本東洋医学会総会(札幌)で、会場の外まで立ち見の聴講者があふれる中で行われた激論は、今でも語りつがれるほどである。翌1988年の総会では藤平と小倉の論戦の場として「伝統医学セミナー」が企画されたが、小倉がこの年1月に急逝したため実現しなかった。
なお電気温鍼器は、現在では面状発熱体を用いた新型ヒーターに改良され、千葉大学や東京女子医科大学、富山大学、福島県立医科大学会津医療センター、飯塚病院、鹿島労災病院など関連した病院で用いられている。特に飯塚病院からの学会・研究会などの発表では多用されている。


当時の電気温鍼器(小倉家蔵)

<「小倉流医療」の確立―漢方薬・食養生・運動の融合>

小倉は漢方により多くの患者を治療したが、やがて、漢方薬と鍼灸でも治らない膠原病などの患者に対して、食養(玄米菜食1日1食)と鍛錬(マラソン10km)を根幹とした治療法を打ち立て、自らも患者とともに実践するようになる。この治療法により、多くの難病患者が治癒したり軽快したりした。著作『自然治癒力を活かせ』はロングセラーとなり第6版まで重版されたが、改訂版には、この治療法により難病を克服した患者たちからの体験記が掲載されている。

食養生

入院患者も小倉家も食事内容は同じで、1日1食。朝はお茶と梅干し1個、昼はお茶と季節の漬け物1枚、そして午後4時頃に玄米菜食の食事が出された。おかずは4~5品で必ず豆、海藻、青物が入り、ご飯は玄米。果物も基本的には食べない。同じメニューが重ならないように、1週間単位で文子が献立を作成した。
食事はすべて医院内でまかない、従業員3人が交替で厨房を任されていたが、日曜日は従業員を休ませるために文子が食事作りも行った。自宅横の畑では堆肥・無農薬農法で野菜を育て、梅干しは自宅前に広げて干し、たくあんは大根を干して塩加減を変えものを毎年四斗樽4~5本ほど漬けた。前日から仕込み丹精を込めて作られた食事は、料亭にも負けない美味しさだったと伊藤隆は述懐している。
食事内容は重症患者に合わせざるを得ないため、1970年台半ば頃からより厳しく制限されるようになっていった。特に、一部の患者には糖質が体の負担になるため、米の量がどんどん減らされていった。中には空腹を我慢できずに隠れて間食する患者もいたようだが、間食をすると病状が悪くなり、結局小倉に隠すことはできなかったという。現在では、「糖質制限食」や「1日1食健康法」などが注目されているが、小倉はそれを遙か昔に気づいていたことになる。

運動

入院患者はパジャマではなく、全員トレーニングウエアを着ており、毎朝の回診では小倉が前日の運動量を確認して叱咤激励した。医院の壁には、医院から火の見櫓まで何km、神社まで何km、という距離の目安を示した図が貼られていた。さながら「道場」のようでもあったという。
小倉は毎朝5時に起床し、朝、もしくは昼休みに毎日10km走った。コースは、矢那街道、または、診療所から田んぼの中を通り内房線の巌根駅周辺の蓮田を回るコースが中心。雨で走れない日は縄跳びを5000回行った。夏は上半身裸で走っていたため、「ランニングシャツくらい着てほしい」と警官からたしなめられたこともある。診療所の周辺は蓮田で日を遮るものがないため、小倉の肌は日に焼けて「小倉色」だったが、肌つやがよく、柔らかくきめが細かい肌をしていた。しかし小倉は、もともとはスポーツマンではなく、体が頑丈だったわけでなかったという。自らの意思と努力によって鍛練を積み、強靱な体を作っていったのである。
小倉眼科医院では、毎年マラソン大会が恒例で、入院患者や元入院患者など、遠方からの人も合わせて50~60人が参加し、15km、10km、3kmのいずれかのコースを体力に合わせて走った。
こうした小倉の運動理論は、米軍の軍医で運動生理学者のケネス・H・クーパーが1967年に提唱した有酸素運動のプログラム「エアロビクス」に基づいていたとみられる。クーパーは1981年に来日してエアロビクスを紹介しており、日本でも大ブームになっていた。小倉はこの理論について著されたサイン入り『Aerobics』を所蔵しており、そのグラフを有酸素運動の説明に用いることもあったという。

小倉マラソン大会 参加賞の手拭い
小倉マラソン大会 参加賞の手拭い
「刻苦光明必盛大也」は小倉の筆跡。

坐禅

1958年より、人間禅(臨済宗円覚寺系居士禅)教団の磨甎庵白田劫石老師に参禅。朝起きるとまず一柱香(線香一本が燃える約45分間)、坐禅を行った。夜中でも、目覚めると坐禅を組んでいたという。東禅寺(千葉)まで坐禅に行くこともあった。
坐禅は、2つ折りにした座布団の上に半跏趺坐で座り、「そくかん」という方法で行った。数息観は、自分の呼吸を吸って吐いて1と数え、100まで数えたら1に戻る。途中で数え間違えたり雑念が入ったりした場合は、1に戻って数え始める。入院患者と共に坐禅の会を行うこともあった。
坐禅名は「小倉温故」で、戒名にはこの「温」が入っている。

<後進の育成>

千葉大学東洋医学自由講座

毎週木曜日には夕方から、千葉大学眼科学教室の生薬室で藤平とともに院内から紹介されてきた患者を診察した。その後は講義室に場所を移して、東洋医学自由講座の常任講師を務めた。藤平が入門講座や傷寒論の解説を、小倉が類聚方広義の解説などを、各1時間の講義を行った。東洋医学自由講座の歴代のハウプト(=部長)は、夏休みに1週間、小倉眼科医院で1日1食玄米菜食、10kmマラソン、坐禅などをすべて行って「小倉流医療」を体験するのが習わしだった。また、富山医科大学(現富山大学)で漢方を学ぶ学生のために、合宿などに出向くこともあった。
小倉の甥(兄・政次郎の子)寺澤捷年は、少年期の夏休みに2~3週間、小倉の元に滞在した。箸の上げ下ろしをはじめとして生活指導は厳格だったが、木更津の海での海水浴や、週末に重いテントを担いでやってくる「東洋医学研究会」の部員たちが、小櫃川上流渓谷でキャンプをしているのが楽しみだった。 [この「東洋医学研究会」の学生たちのために小倉先生は診療所の隣に一軒の家を用意していたが、その有り様はまさに「梁山泊」であり、漢方のにおいを感じるという意味での「漢方との遭遇」であった。(中略)本当に学生を大事にし、共に漢方を学び、実践することを楽しみともしていたのである。当時の学生たちも立派であったと今、考える。学生たちも、純粋に学問的興味から集まっていたのである。梁山泊と称する所以である]と寺澤は記している。
千葉大学や富山大学などで小倉の薫陶を受け大きな影響を受けた鍋谷欣市、松下嘉一、寺澤捷年、今田屋章、土佐寛順、三潴忠道、伊藤隆、並木隆雄、勝野達郎ら多くの教え子が、卒業後に漢方の道へ進んでいる。

倉門会

田畑隆一郎が発起人となって月に1回、木更津に参集して、奥田謙蔵の『傷寒論講義』を用いた勉強会を開き、勉強会後には玄米菜食を肴に議論と懇親を深めた。発足当時のメンバーには、岩崎勲、久保田富也、佐藤巳代吉、藤村光雄、田畑隆一郎、斉藤謙一、佐波古美智子、中村謙介、盛克己、村山暉之、村山和子、土屋みさを、佐橋佳郎、本間精一、角田正之、横田高太郎らがいた。1983年に機関誌『倉門』を発刊。小倉の逝去後は、茨城で「常陽漢方セミナー温成塾」として勉強会を続けた。温成塾の名は、小倉の戒名と名前から1字ずつとったもの。その後は、一般公開の勉強会「無門塾」として現在でも継続している。

『倉門』第1号
『倉門』第1号

木更津漢方アカデミー

2007年より、小倉を偲ぶ会として発足(会長:盛克己)。毎年1月10日の命日近くに、小倉の墓参と勉強会、懇親会を行っている。第10回(2016年)は、小倉の生誕100年を祝して多くが参集した。

第10回木更津漢方アカデミーの様子(2016年1月10日)

第10回木更津漢方アカデミーの様子(2016年1月10日)

第10回木更津漢方アカデミーの様子(2016年1月10日)
第10回木更津漢方アカデミーの様子(2016年1月10日)

かつての小倉医院は、現在、木更津市の建物として使用されている。
かつての小倉医院は、現在、木更津市の建物として使用されている。

<表>
「第10回木更津漢方アカデミー小倉重成先生100周年記念会」(2016年1月10日)
墓参
焼香(小倉邸)
100周年記念講演会(ロイヤルヒルズ木更津ビューホテル)
開会の辞:鍋谷欣市
記念講演会 司会:並木隆雄 演者:寺澤捷年、三潴忠道、盛克己
懇親会

<人柄>

小倉の人柄は、一本気でまっしぐら、実直、純粋、そしていつも真剣だった。患者指導に熱心なあまり、1人の患者に1時間も「お説教」をすることもあった。その厳しさに、受診しなくなってしまう患者もいたが、指導を守って努力する患者には、どこまでも面倒をみる優しさを示した。厳しくきつい言葉も発したが、小倉をよく知る人は口を揃えて、その裏にある優しさを指摘している。
小倉は、漢方に導いた藤平を生涯師として仰ぎ、その礼を失することはなかったという。後年は「併病」「潜証」の論戦ゆえに犬猿の仲と誤解する向きもあったが、これはあくまで学問上の論争だけのことで、それ以外ではよきライバルであり、友人であり、師弟であった。
診療以外の時間は、読書や原稿執筆に費やした。読書は漢方関連の書物が多かった。また趣味として宝生流の謡を習い、自宅ではレコードをかけながら仕舞の練習していた。茶道の心得もあった。
余暇に最も好んだのは山歩きで、若い頃は藤平健とも各地の山へ出かけた。山行の際でも、食事は玄麦パン2切れで登った。入院患者がいるため、普段の生活ではほとんど休暇も取れなかったが、正月休みと夏(誕生日の8月1日前後)には、文子を伴って2~3泊程度の山歩きに出かけた。大がかりな山へ行く前には、事前に丹沢や千葉の山などで足慣らしをした。最後の本格的な山行となったのは、北岳。このころ小倉は新病棟移転に伴う作業や手続きなどのためにかなり疲労しており、行程の半分くらいで引き返そうとしたほどであったが、少し横になったのち元気なり、山頂の小屋までたどり着いた。亡くなる前年、1986年の71歳の誕生日のことだった。なおこの新病棟移転工事にあたっては、自宅の庭に23年も慈しんで育てていた150種ほどの花木・山野草がすっかり荒らされてしまい、身体的な負担に加えて精神面でもかなり落胆していたという。
食事は1日に1回であったが、自家製のぬか漬けが好物で、とくに季節物のたくあんは毎年一番楽しみにしていた。旬の野菜、キュウリやカブやダイコンなど、1年中何かしらの漬け物が常備されて、古漬けになったたくあんをきんぴらにするなど、変化を付けて味わった。
藤平に教わったという「お酒」はたいそう好きで、自宅では毎日文子と共に晩酌を欠かさなかった。自宅で飲む量は1合半程度でも、外で飲む場合はかなりの酒量であった。しばしば訪れたのは、学生の講義のあとに藤平らとともに連れだった千葉駅前の焼鳥屋(「とりまん」)。こうした外食時でも、付け合わせのパセリしか食べないなど菜食を通していたが、藤平にそれを繰り返しとがめられ、のちには他人と外食するときには野菜以外の食べ物も少し口にするようになった。

<小倉重成「無病息災の食べ方」>

聞き手 小倉文子
(1980年頃患者向けに録音したテープより文字おこし)

Q 私は西洋医学に見放された難病をなんとか治したいと思い、本を読み漁ってきた者でございます。そんなとき先生の自然治癒力を生かせのご本にめぐりあい、今度こそはの思いで小倉医院を訪ねさせていただきました。小倉先生が40何年間の診療経験からまとめられました貴重なお話を私どもにいろいろお聞かせくださるのですが、何しろ今までの常識と異なりますものですから、一度に話されましても、こちらも緊張しておりますし、ぼんくらで右から左へ抜けてしまうことが多く、せっかくの素晴らしいお話もいくらも残っていないようで残念に思っておりました。
それではあまりに勿体無い気がしますので、もう少しお話を伺いたいと思い、お願いしたところ、快く承知してくださいまして、テープにとることも承知してくださいました。私と同じような気持ちの方、他のやめる方々にもご参考になればと思い、ここに残させていただきました。
先生お忙しい中、わがままなお願いをお聴き入れいただきまして、ありがとうございます。私だけがお聴きするのでは勿体無いのでテープに吹き込まさせていただきますが、よろしいでしょうか。

小倉 ああ、どうぞ、どうぞ。私は話し下手で、ただ自分の体験したことしか、話せないので、そのおつもりでお聴きください。
私も病める人を治せるという希望で、医師になったのでありますが、眼科という小さい科におったために、医局に1年残りますと、直せない病気ばかりであることにつきあたって非常に落胆したのです。西洋医学で治せない者をどうやったら治せるか、ということで東洋医学を学ぶきっかけができたのであります。
で、漢方に入りましても、脈がわかるのに私にとっては10年かかりました。そしてある程度治せるようになったと思うと、東洋医学西洋医学合わせても治せない病気が非常に多いということがわかって、そこに行き詰まりを感じたのです。では、東西医学で治せない病気に対して、どういうことをしたら治せるようになるか。これは非常に大きな問題であります。

Q そうしますと、私どもは患者の立場で、西洋医学に行き詰まり、東洋医学の方に治療を求めて、救いを求めて、お尋ねしたわけですが、先生はお医者様のお立場でそういう同じような行き詰まりを覚えられて、東洋医学にお入りになられたということなのですね。ま、それについて、これから具体的にお伺いしたいのでございますが、漢方というのは西洋医学からはごく最近まで認められていなかったという歴史を持っているようなのでございますね。それだけに西洋医学が幅を利かせていたわけなのですが、それぞれ長所と短所があるのではないかという気がするのです。その辺から少しお聞かせいただけますでしょうか。

小倉 病んだときに、まず医学に救いを求めるのは一般の生き方だと思います。ですから、東西医学の長所も欠点もありますので、そのことから効用と限界を考えていくのが順序だと思います。
まず西洋医学の長所と短所について申します。西洋医学は最近、とみに発展しまして、検査と外科的処置が大変進んでいます。もう一つは抗生物質で、いろんな伝染病から救われ、日本人の寿命が世界一になるのに役に立っています。ところが内科的治療になりますと、ほとんど対症療法、痛い時には痛み止め、熱がでれば解熱剤といった、対症療法が主で、どうして痛みをおこしたかという、基本原因から治してはくれません。関節リウマチでも、恐ろしいステロイドを使って骨まで溶かす治療をするのです。一時的には好転するようですけれど、かえって病の進行を早めて、一生涯治らないものにしてしまいます。たとえ、外科面でも、蓄膿症を手術するにしても、何故蓄膿症を起こしたのかという、血液の濁りからの改善はしないものですから、再三の増悪は免れません。東洋医学にしましても、非常に総合的な治療がありまして、風邪のようなウィルス性疾患、リウマチのような難症にもよく応ずるのでありますが、では何故そのような漢方薬を使わなければならなくなったかという、基本原因については述べておりません。したがって東西両医学を併用いたしましても、病むに至った基本原因について考えないので、両者を合わせても万全とは言えません。それでは東西両医学をもってしても治せない病人をどうやって対処したらいいかということが非常に大きな問題なのです。
東西両医学では救えないということがはっきりしているのですから、これは非常に絶望的であります。ここから私どもの暗中模索が始まったのであります。

Q 私も漢方薬には副作用がないということを耳にしまして、なんとか漢方薬で救ってもらえないかという思いで、非常に甘い考えでおりました。それで先生のところをお尋ねしましたところ、いきなり「何で病んだかという反省と修正がなされなければ病なんか治らない」と大声で言われまして、実はびっくりしたのでございます。そう言われましても、私たち素人には病気は医者に治してもらうものと思い込んで過ごしてきたので、いきなりそう言われましても、困惑したのでございます。それを一つ一つお話しいただきたいのです。病の基本原因ということからお話をお聞かせください。

小倉 承知しました。
我々の生命力の中にあらゆる病を克服できる自然治癒力がなければ、どんな名医が現れても治るはずはありません。各人、そういう素晴らしい生命力を持ち合わせているのですけれども、生命には生命の従うべき厳然たる掟があります。
この掟に逆らうほど重く病み、この掟に従うほど健康になるよう仕向けられております。ではその基本原理とは何か。大きく分けて三つといたします。
一つは人格病、心の歪みですね。例えば、私憤、憎悪、嫉妬、煩悶、貪り、取り越し苦労、諸々の雑念、妄想。そういうことに明け暮れるのが、我々一般の心のあり方であります。一番困っているのは貪りですね。腹一杯になっても、饅頭が目の前にでれば、つい手が出てしまう。というようなことが病の大きな原因の一つなのであります。
その次は環境病。食品添加物。農薬、PCB、水俣病はその極端な例ですけれど、大気、土壌、水質の汚染、これがだんだんひどくなっていることは皆様ご承知の通りでございます。これからくる病を環境病と呼んで、なかなか一筋縄ではこれは処理できません。
三つ目は生活病と呼ばれているもので、姿勢、呼吸、食べ方、鍛錬の不適正からくる病をひっくるめて生活病と呼んでいる。風邪のような軽い病から、癌のような重い病までことごとくが、この三つの基本原因、人格病、環境病、生活病三つの複合から成り立っています。その各々が正される程度に応じて、心身の健康が得られるとすれば、その責任は病む人自身にあるのであります。
漢方薬がいい、西洋薬がいいと言ったところで、それはよろめくときの杖でしかありません。杖なしでよろめかなくなるというのが本筋なので、本末を転倒しないようにしていただきたいと思います。

Q 病の基本原因が、人格病、環境病、生活病ということでございますね。人格病については先生の言われる通りで、私ども誠に恥ずかしい限りです。これこそ自分の責任の範囲でやっていかねばならないものであります。環境病、これも自分たちの力の範囲を越えたものですが、ごく身近な問題から取り組まねばならないということがある気がします。大いに反省させられます。生活病ですが、姿勢、呼吸、食事、鍛錬ですか、その4つにお分けになっておられるのですが、姿勢、呼吸についてもう少しお聞かせいただけないでしょうか。

小倉 前屈み、猫背になっておりますと、酸素が充分入らないで肺尖呼吸になってまいります。そうすると炭酸ガスが出ていきませんので、血液の炭酸が増えて病の原因になります。前屈姿勢ですと、気が滅入ってしまいます。これも血液を酸性に傾けます。緊張しやすく、のぼせてしまって、精神エネルギーの消耗が非常に多いです。いい姿勢というのは、てっきり腰とも言うし、本腰を入れるとも言いまして、腰骨がぐっと前に出て、丹田にぐっと力が入って、丹田呼吸になります。そうしますと緊張すればするほど、のぼせの下がる姿勢となりますので、真剣勝負にも躊躇なく望めるということになります。ことに生死の問題を脱却するというのは、正しい姿勢が不可欠であります。生死の問題だけでなく、たとえば、書道、剣道、茶道、スポーツ、ご将棋、あらゆるものを行う上でこの正しい姿勢が必要であることは、ご想像いただけると思います。ではその正しい姿勢を得るのはどうしたらよいか、それぞれの学びことからなされなければならないのでありますが、今病んだ我々がそれを正そうとすると、縄跳び連続5千回を毎日やっておりますと、自然に姿勢が正しくなってくるのでありまして、これが正しい姿勢を得る一つの手段だと思います。

Q 私は、姿勢とか呼吸とかそんなに病と関係あるとは今まで思ってもみなかったので、非常に恥ずかしい限りなのですが、今先生のお話を伺っておりますと、確か小学校のときに先生たちが姿勢のことを随分と厳しくしつけてくださいました。もちろん、お習字の時間もありましたが、そういうときに非常にやかましく言われたのを初めて今思い出されたのでございます。今の子供たちは学校でそういうしつけはおよそされないので、先生の言われる猫背が非常に多いということは、私も今初めて痛感しているところです。ま、学校でそういうしつけがなされないとすれば、私ども主婦が家庭で、母親としての責任で、子供達にもそういういい姿勢を正させていかねばならないということを今あらためてわかったような気がいたします。私のような主婦の立場として、あるいは母親の立場として、もう一つ大変責任を感じておりますのは、先生が次に言われました、食べるということでございますか。それにつきましても、私どちらかといいますと、栄養学に沿った指導の仕方が中心であったような気がいたします。自分はたまたま病気になりましたために、食事に、食養ということで何か変えなければならないのではないかといろいろな本を読み漁ったのであります。今先生のお話を伺っておりますと、家族にとっても病む前にそういう食事を摂っておくことが大事ではないかと今責任を感じているところです。そのくらいですと、さしあたって、今日からでも実行できる範囲の病の原因となりそうなので、ひとつ食べるということについて、具体的にもう少しお話をお聞かせくださいと思います。
私も今まではいろいろな先生方が言われる食事療法、食養というものがございますが、ま、私なりに生半可に理解したところもありますが、いろいろ試みたことが随分ございます。その結果、あまり芳しくなかったという結果がでたのでございますが、私が外来で先生の話を伺っておりますときに、食事療法という言葉を発しましたら、先生がそういう言葉はないと。食は非常に大切な問題で、病んだからどうのこうじゃなくて、食を正すという風に考えていかなければいけないというお言葉を頂いたことをはっきりと覚えているのでございます。そこで先生にこれから具体的にお伺いする前に、先生はそこまではっきり自信をもって食を正すという言葉を言われるからには、やはりそれなりにきっかけがあり、いろいろな経緯があったんじゃないかという気がするんでございます。それについて、まずお話しいただけたらと思うのでございますが。

小倉 まさにその通りです。私が食事に関して、関心を持ちましたきっかけといいますのは、研究課題としてビタミンB1と肝機能というテーマが与えられました。体の中にB1が不足しているか、余っているか、ということを知る一つの手段として、B1負荷試験というのがあります。これは朝食とともにB1 1mgを飲みまして、その後3時間までの尿を貯めて、その中に出てくるB1の濃度を測定するのでありますが、病人でも健康人でも、ほとんどの人にB1欠乏が検しられました。脚気に類似した症状があるのではないかと思って、検査してみますと、ほとんどの人にあります。その中で特に顕著なのは神経炎といって、手足の末端、これは敏感でなければいけない。綿花で触れても感じないという、恐ろしい事実があることを発見しました。その他にも脚気類似症状というのはあるのですが、これは一番顕著なわかりやすい症状です。みなさん綿花でご自分なりお子さんなりの指先を触れてご覧になってください。感じる人はほとんどないと思います。そういう自殺行為をやっているのであります。それに対処するにはどうしたらいいかというと、一応、B1の注射なり経口投与なりをしてみたのですが、脚気様の症状というものは消失いたしません。ではどうしたら良いかというと、播けば芽が出るという自然食を、例えば玄米のようなものに変えますと、脚気類似症状が好転するだけでなしに、一緒にあるいろいろな病気が治ってくることに気付きました。これが私が食べ物というものに対して、目を開く第一歩でありました。では一体どういう食べ方が正しいのかということを知るために日本の米食史と疾病関係、それから高木兼寛の食養法、いろいろな人の食養法などを文献を見まして、それを自分の体および患者さんを通じて、改めてまいりました。そういたしますと私自身も痩せておったものですから、太ってみようと思って朝から食を始めてみましたが、皮膚病は起きる、夏はだるい、冬は寒いで年中いいときがありませんでした。ところが玄米菜食にしてみますと、それも最初は2食していたのですが、2食ではベーチェット病のような失明率70%などの重い病気は治りません。1食にして、さらにどれくらいの量とすればベーチェット病が治っていくかという、ベーチェット病患者から教わりながら食を正してきたのが、今日の食べ方になっているのであります。

Q 今、先生がかつて失明率が非常に高かったベーチェット病ともども歩みながら今の食事が生まれてきたのだということをお話しくださったわけですが、先生が、いろいろな古い文献を紐解かれていらっしゃって、日本の昔ですか、今のように食事が豊かでないときに、我が国が米中心の生活をしていて、どうだったのかという、その辺を簡単に少しお話しいただけるでしょうか?

小倉 確かに、日本の昔からの食べ方はいろいろ変化しております。それに伴って、病気も変わってきております。それを辿ってみますと、戦国時代には武士が鎧兜刀など40kg以上の物を身につけて飛び回っておったときは、玄米の干し飯1日2回、梅干しがおかずでした。そのうちに大変になってまいりまして、口当たりのいい物が求められて、元禄の半ば頃から白米に変わりました。白米になると2食ではいられないので、3食ということになりました。そうすると、江戸患いといって、重いのは脚気、衝心で死ぬと、そういう重い脚気が蔓延して徳川の代々の将軍は江戸患いで死んでおります。それから明治になりますと、富国強兵で、陸海軍ができました。陸軍は白米、海軍は白パンでありました。そうすると甲種合格の立派な体格の兵隊が役について年間のべ1000人以上の病人が出て、戦争のときに、行軍の途中でバタバタ倒れるし、海軍では軍艦が動かせないというような事態も生じてまいりました。そこで時の軍医総監高木兼寛が明治天皇に奏さいして、麦を3割混入することで百人の兵隊で病人が十人前後という風に極端に減った歴史がありました。
それから中国の食べ方と疾病率をみます。有名な中華料理ですと、油を使っていて、動物食がほとんどです。そのために抵抗力がなくなりまして、病人が多くなります。たとえば、チフスのような重い病気にかかる人が多くなります。それから心臓病、虚血性心疾患などが多くなり、これに対する医学が発達せざるをえませんでした。それが傷寒論という立派な、今でも生きている学問になっているのであります。傷寒論と申しますのは聖の書。医学でいう聖の書と言われている非常に重要な経験豊かな役に立つ学問なのであります。肉食が主であった欧米ではそれ独特の疾病像がみられます。それを真似して日本に取り入れてからは日本の病像も欧米なみの病像に近づいてきております。したがって、食べ方がいかに健康と疾病に関わってくるかは、内外を通じてわかることであります。

Q たとえば先生が中国、それから欧米の食事と疾病の関係についてちょっと触れてくださったのでございますが、私もふりかえってみますと、私なんか戦中戦後の、食料の乏しい時期に子供時代を過ごしたのですけれど、あの頃周りを見回してみても、しもやけとあかぎれのお子さんが随分いたような気がします。しかし、特によく風邪をひいたという記憶はありませんし、まして大きな病気の人も周りにいるということは記憶にないのでございます。それがだんだん昭和30年以降くらいから食べ物が豊富に出回るようになって、やれ腎臓が悪いの、肝臓が悪いの、癌だの、脳溢血だの心臓病だの、あるいは最近はアレルギー性疾患だの、そういう病気を意味するようになったのでございますが、ま、その辺から考えてみますと、食事と病気の関係は大いにあるということがはっきりとわかるのでございます。食べ物が豊富になって私たちがとるようになった食事というのは、非常に中国式、西洋式であり、日本古来の精進料理というのはすっかり影を潜めてしまいまして、肉とか魚卵ミルク、そういうものが中心の食事に変わってきているのでございます。ま、そういったところが、学校給食との関係もあると思うのですが、今の子供は日本料理は好まない、味噌汁、つけものを好まない。肉魚がないとおかずと思わない。そういう風調になってきている。親もそういうものを食べさせれば成長して子供が丈夫になると、思い込んでいるわけです。お医者さんからも、病んだときには、安静にして栄養のあるものを取るということをすぐ指示を受けるのでございます。その辺がどこからそういう考えになってきたのか、栄養学ということを最近のお母さん方は大変よく研究会などでも取り上げられているのでございますが、栄養学ということについて、先生もう少し、お医者さんの立場からお聞かせ頂けないでしょうか?

小倉 そのことは大事だと思います。日本が医学をドイツから学んでおる当時、栄養とは何かという質問に対して、ドイツの医学大使ヌグネルルフト大尉がミュンヘンで中等度の労働をしておる仕立て屋さんの常食をもって栄養とし、これをタンパク質、脂肪、蛋白、ミネラル、カロリーは2400kcalと、そういう風に体系づけたのであって、決して確たる根拠があって言い出したものではありません。この話を聞いて、デンマークのヘンヅヘールトという人は、1400kcalで元気で過ごしておりましたが、自分のやってることが間違っているかどうか、ドイツへ赴いてみて、2人の医学博士の通りの食べ方をしてみました。1週間もすると、だいぶ疲れてしまったのです。急に食事が変わったためかと考えて、1ヶ月我慢をして彼らのいうことを聞いてみたのです。すると半病人になって、とうとう動けなくなってしまいました。それで自分の今までやってきたことの方が正しいということがわかって、彼は世界大戦中に食糧庁の長官になって、動物性の食品は全部外国に売りとばして、国産食の増量に努めて国家の危機を切り抜けたのであります。この根拠のない栄養学は今もってあらためられないでそのまま日本に通用しております。日本というより世界に通用しているのかもしれません。これが病を起こす大きな原因となっていることは現在の食べ方から重い病気が出ているということでもお分かりいただけると思います。とくに私が対象といたしました、かつて日本人が罹患する率が一番多いと言われ、失明率70%にも上ったベーチェット病は食事の量、質、いずれの誤りでも目に炎症を起こして、食べ方の誤りを教わるのに最もいい病人ということで、私はベーチェット病患者が良くなるか悪くなるかで40年間教わって今日の食べ方に変わってきたのです。

Q 私もベーチェット病はいくらか目にしてきたのでございますが、先生が一番手こずられた病気ということになりますね。そこで先生が油までおやめになったご事情があった気がしますが、先生が正しい食事、正しい食べ方ということを言われるというのは、そうすると、玄米菜食精進料理と解釈してよろしいでしょうか。

小倉 はいそうです。

Q 精進料理というと、私ども、昔、盆やお祭りのときに、母が精進揚げあげてくれたりしてくれたのでございますが、動物食品こそ使わないけれど、油はいつも使われていた気がします。ただ野菜料理であれば、精進料理と単純に考えていました。先生のお食事の内容を見てまいりますと、とてもそんな簡単なものではないという気がします。精進料理という言葉を私たち非常に気安く使ってしまって申し訳ない気がするので、精進という言葉がどの辺から出ているのか、そこから一つお聞かせいただけますでしょうか。

小倉 みなさん、精進料理という言葉には、聞き慣れていらっしゃるし、その内容もだいたいお分かりかと思います。その元の精進ということについてあまりご理解がないのではないかと考えます。精進と言いますのは、非常に難しい意味がありまして、精とは、刻苦精励して余念を交えず専一なること、進とは行住座臥懈怠なく務めること、非常に難しい言葉ですね。刻苦とは苦労の中に自ら飛び込んで心身を修練するという、人生にとって最高の生き方と思います。そのためには鰹節も使ってはいけないということなのであります。ですから、日本では昔から魚を食べる人のことを生臭坊主という軽蔑の言葉が残っております。ところが明治の中頃から肉食、ミルクまで摂るようになって、現在の死亡率最高は癌、心筋梗塞、脳溢血の順になって病像が変わってきています。中国古来の精進料理を例にとりますと、黄檗宗の精進料理が有名です。これは動物食は一切使わない代わりに、非常に油が多くて現在このような料理を食べたならば、ベーチェット病は失明に終わるというくらい、こってりした料理であります。本当に健康に良い精進料理というのは、どういったことかと申しますと、少なくとも鎌倉時代に始まると思います。頼朝は贅沢を嫌って京都から鎌倉へ幕府を移しました。当時がちょうど禅宗が盛んな頃で永平寺を開山した道元禅士などが食べ方についての、注意をいろんな本について残しております。これに従った僧堂の食事というのは、非常に質素なもので、朝は天井が映るような薄い粥に、お新香が2-3切れつくだけ。昼は普通食。夜は、朝と昼の残りをおじやにして、これを食べても食べなくともいいというので、薬石という名前で呼んでおります。こういう風ですから、作る側も食べる側も非常に食に感謝して、これが修行の役に立つようにと、心が配られております。こういう、受ける方も与える方も食について非常に心を配っているということは、現在も食べ方についてかなり取り入れていかなくてはいけないことだと思います。主婦もこの頃、包丁を持たなくなり、スーパーなどで出来たものを買ってポンと食卓の上へのっけて済ませるようでは、家族の間の親しみというものも無くなるし、平気で残したり棄てたりができるようになって、食を通じての人格の完成ということはとても望めず、家庭の崩壊も食べ方の誤りに原因が大いにあると感じられるのであります。

Q 私もその点については本当に同感です。つい手抜きの料理というものは、してしまいがちなのでありますが、ものによっては時間かけて作るよりは、買ってきてしまった方が安く済むものもあるわけなので、これから大いに反省しなければいけないことなのだと思います。そこで精進という言葉には非常に深い意味があることをおぼろげながらわかってきた気がします。精進料理ということになりますと、私どもたまたま外で頂く機会がありますと、懐石料理、精進料理というものを見ましても、その内容と質につきまして、先生のお宅の食事とは大分違うことがわかるのでございます。先生が40何年かの体系を開いてきて結果、この食事の内容ですか、それについてもう少し具体的にお話を伺いたいと思うのでございます。

小倉 承知いたしました。
これはいくつかの細目に分けてお話した方がわかりやすいと思います。
一番には調和のとれた食物。お米ならば、蒔けば芽の出るという玄米。ゴマ油ではなく、ゴマはそのものを使う。そういう風にいたしますと、例えば白米と玄米を比較いたしますと栄養学の上ではカロリー計算では大体同じでございますが、白米ですとビタミン、ミネラルの90%以上棄ててしまっております。白い、押し麦も然り。メリケン粉も然り。砂糖も然り。消化されて、ブドウ糖、果糖になったときにいざこれから燃えてエネルギー化しょうとするときに完全燃焼できるはずがありません。ちょうど空気の乏しいところで薪を燃すように、わずか完全燃焼の1/20のカロリーを出すだけで19/20は小便へ捨ててしまいます。そういう効率の悪いものですから、3度食べなければやっていけない。そうすると消化したものを集めて解毒して全身へ回す役目の肝臓が悲鳴をあげてしまいます。肝臓の季肋下を押しますと、そこに抵抗と苦痛を覚えて、漢方ではこれを胸脇苦満といって、肝臓の悲鳴であります。この肝臓の悲鳴のない人はほとんどありません。肝臓の悲鳴をあげるくらいですから、その余波はどこかへ持って行って病を作る。当然のこととなりますが、ですから病は自分が作る、自分で求めていることになります。玄米は少量食べますと、完全燃焼して白米の20倍の燃え方をいたします。1/20で用が足りるとしますと、2食している人は10日に1遍でいいことになります。現に大正初期のやまねすみえさんという女性が、10日か1週間に一遍しか食べなかった。頬の豊かな美人で、超健康で飛ぶように早く歩いて、案内される大の男がついて行けなかったという記録が残っております。まあ、10日に一遍でもいいのですが、そんなことすると入院患者が買い出しへ行ってしまうから、私どもでは朝昼を抜いて夕飯一食にしております。玄米炊くには1合以下は炊けません。1合炊いたら、大体5日ぐらいで食べる。多くて2-3口、少なくて1口。1口でも白米の20倍ですから、20口分にあたる。そうするとお茶碗2杯分に相当するのです。ただしよく噛まねばなりません。今までが3度以上食べていますから、体がついてくるには4日かかります。3日間は気怠くて口を聞くのが嫌になります。そこを通り越しますとスッキリしてまいります。
動物食、これをやりますと、ベーチェット病がたちまち悪化してまいります。肉とかミルクとかを含めた動物食をとるようになってから100年前後ですので、これを完全にアミノ酸まで消化する能力は日本人の消化液の中にはありません。せめてポリペプチド、ペプチドがたくさんという意味ですが、未消化の段階で血液中へ入ってきます。これが異物、すなわちアレルゲンとなってアレルギー性疾患を起こします。現在膠原病、肝炎、腎炎、ストロフルス、喘息などが多発しております。そういう原因を毎日口から入れながら、骨まで溶かす恐ろしいステロイドなどを併用しているのは、全く危険千万であります。
では蛋白は何から取ったらよいかというと、大豆ですね。大豆が30-40粒です。ただし加工品の豆腐類や納豆、湯葉なんていうのは、加工の途中で何か大切なものが失われているらしくて、これだけやっていると貧血を起こしますので常用はしないで、避けた方がよろしいようです。
それから、私は脂肪は植物性のものならばよろしいと思ってきたのですが、ベーチェット病患者がこう言います。茄子の油炒め食ったらまたやられっちゃった。やられたというのは眼底に出血性炎症を起こして視力が落ちるのであります。油を摂るたびに視力が落ちるものですから患者の方で気づく。そういうことがわかってから油を使えなくなりました。考えてみますと、ゴマなら芽が出るけれど、ゴマ油を蒔いても芽が出ません。玄米なら芽が出るけれど、一分づきにしても芽が出ません。死んだものはみないけないよということをそういう重症患者が教えてくれたわけです。
それから自然界はみな陰と陽から成っています。男と女、夏と冬、昼と夜、食べ物にも陰と陽があって、陰の代表が果物、胃入っていって、胃全体が体温と同じ温度に上昇するまでは、消化が始まりません。胃の中から冷やして全身の抵抗力をなくす。同じようなことは、生野菜、果菜すなわちトマト、メロン、西瓜など、こういったものについても言えます。全く食べるなではありませんが、特に陰虚証の人には注意しなければいけません。

Q ちょっと先生すみません。先生今、陰虚証という言葉をお使いなされました。私も果物は体にいいのではないかと思って随分摂ってきて、たしか初診のときに先生から果物顔で冷えっぽいということを指摘されたのでした。陰虚証というのは、どういう風に解釈したらよろしいでしょうか。

小倉 これは言い落として申し訳ありません。陰とは陽に対して申します。陽は太陽の陽ですね。虚とは実に対して申します。陰というのは冷えっぽいということですね。虚というのは疲れやすい。その両方合わせて陰虚と申します。陰虚証に対しては、冷やす果物とか生野菜、果菜などを摂りますと、病を悪化させます。今はこの陰虚証がとても多くなっておりますから、一般にこういったものを摂らない方がいいと考えられます。
次に、身と土と二ならず。身土不二という言葉があります。その土地でその時期に採れたものが体に良いということであります。現在では交通機関も発達して、熱帯からの果物も入っておりますし、ビニール栽培で冬でも茄子胡瓜トマトが、売られています。これは旬が外れてますから、美味しくないだけでなしに、体にも悪いわけです。これを身土不二と申します。
もう一つ、非常にありふれていてなかなか実行できないことに咀嚼玩味があります。よく噛むということですね。いい例として、昔から青そこひ(緑内障)というのは、遅かれ早かれ失明すると言われておりますが、ベーチェット病から教わった1日1食で運動してまいりますと、この青そこひという難病に対しても失明させないですむのでありますが、60過ぎたおばあちゃんが縄跳びせいと言われてもでけんと言ってまいりました。一体どれくらいかけて食事するのかと尋ねますと10分くらいだと答えたのです。それでは短すぎるからよく噛んで飲み込まないで、口の中から無くなるくらいにしなさいと言って帰しましたら、2週間して参りましたときに、今度は縄跳びができると言うのです。ではどれくらい時間かけるんだと言ったら1時間くらいかけて食事しているというのにはこっちがびっくりしました。噛むと噛まないのではそれくらい違います。粗(あら)噛みの人は余計食べるし、顔の皮膚もざらざらして、よく貪りの相が顔に現れるものです。こんな簡単なことで健康不健康が分かれてきますからよく注意してください。

Q それでは正しい食べ方につきまして、もう一度復習をさせて頂きたいと思います。まず調和のとれた食べものを摂るという事。動物食、油は避けること。それから果物もやはり今の人たちは陰虚証が多い、冷え性疲れやすい人が多いので、果物、生野菜は避ける方がいいということ。その土地で取れる旬のものを献立に入れるということ。加工品は避けるということ。咀嚼玩味、よく噛むようにということ。主食については玄米が1合を4日ないし5日でよく噛んで食べるということでわかりました。タンパク源として大豆を30粒ないし40粒ということ、豆腐とか納豆とかの加工品を避ける。野菜類についてなんでございますが、野菜について具体的なお話がさっきなかった気がしますので、その辺についてもう少し追加して頂きたいと思います。

小倉 玄米は一口でも多いくらいですからオカズの中に主食に代わるでんぷん、たとえば芋類、かぼちゃ、小豆、蓮根、栗、モロコシ、クワイ、などというものをあまり取り入れない。もしそういったものを食べたいのであれば、玄米を減らすか、よすようにします。海草は1種類は必ず入れます。海苔、ヒジキ、ワカメ、どれでもよろしいです。緑のものも、1品は必ず取り入れます。それで大体献立が、本筋だけ申しますが、後は何を利用しても、旬のものならばいいわけです。

Q そうしますと、今の時期なら大根、蕪、白菜、葱が残っているのでございますが、そういうものは野菜として、料理に使っていい。でんぷん類は同じ野菜でも量を考えないといけないということになります。大根、白菜、葱についてはこれでどれくらい摂っていいかとか、摂ってはいけないとか、あるのでございましょうか?

小倉 大抵の方はお腹いっぱいにならなくちゃ承知しませんから、カロリーの少ないものでお腹をよくしたらよろしいかと思います。その中で特に気をつけなければいけないのは、皆さんのお考えでは、こんにゃくは全然消化されなくて出て行くから、いくら食べてもいいという考えの方で腎臓を悪化させた例がありますから気をつけて頂きたいと思います。

Q それともう一つお伺いしたいのですが、鰹節も使わないということをおっしゃったのですが、実際にだしはどういう風にしておとりになっていらっしゃるのでしょうか。

小倉 冬野菜は大体だしが出ます。夏でもだしの出るものと言いますと、玉ねぎ、馬鈴薯、干し大根などが使えます。だしのでるもの、出ないものと組み合わせますと、だしを使わないでも済みます。またよほどだしのでないものをあわせるときは、だしとして干し椎茸や、だし昆布を用いるといいようです。

Q 味付けなのですが、先生のお宅は、砂糖を一切置いていらっしゃらないし、お使いにならないということなのですが、そうでしょうか。

小倉 自然食というものは噛み締めれば必ず甘みのでるもので、したがって調味料としては塩、醤油、味噌、そういったものの薄味にするようにいたします。よく塩は腎臓に悪いと毛嫌いする人がありますが、薄塩はやはり必要です。少しの塩でしたら、腎臓とか病気のことに留意しなくとも大丈夫です。

Q ありがとうござました。これでどうやら私も献立にとりかかれるような気がしてまいりました。
病の基本原理の中の、最後の方に鍛錬という言葉がでておられたのですが、それについてこの後聞かせて頂きたいと思いますのでよろしくお願いします。
今、ジョギングがブームになって、世間一般の人たち好まれて走る姿が見られるようになっています。もう10年以上前から先生は実際に治療の中に取り入れておられ、患者さん同士のマラソン大会まで開かれていらっしゃっていると伺いました。健康な人が健康を維持するために走るというのは私もわかる気がするのですが、病んでる患者さんが動いていいのかということが一つ引っかかるのでございますが、その辺のご説明をお願いしたいと思います。

小倉 実際の例しか私にはわかりませんので、まず養鶏の話からしてみたいと思います。
養鶏は小さい箱の中へ入れられて動けないようになっております。夜でも電気をつけて、昼となる条件にされて、なるべく多く卵を産むように仕向けられております。そうしていくうちに卵を産まなくなってまいりいきますと、これは廃鶏(はいけい)として安く売られます。それを買ってきて放してあげますと、運動を回復したせいか、やがて再び卵をうむようになります。乳牛はじっとしておりますと、乳腺炎を起こすので、飼料の中に抗生物質を入れるのでありますが、それでも乳腺炎を起こして参ります。そうすると野へ放して自由に牧草を食べさせるようになりますと、抗生物質なしも乳腺炎が自然に治って参ります。動物というのは動くことによって健康になっていることが、このことからお分かりかと思います。
東北大の近藤名誉教授が、自分の足で長寿村、短命村を歩いて、確かめたところによりますと、調査の結果を伺いますと、100歳以上健康で長生きしている方のことを調べると、大体壮年まで8時間ないし11時間の重労働をしてばかりで100歳を越えても軽労働はやめておらないのだそうです。よく病院などでは絶対安静を命じられておりますが、3ヶ月もたちますと非常に陰虚証に陥って食事に5分か10分起きているのさえも辛くなってまいります。これを起きて徐々に歩くところから始めて10km走れるようになりますと、途中の検査成績は悪くなるのですが、大体コンスタントに10km走れると、検査値も正常値に入ります。現在では車が発達して車のない家庭はありませんし、バスひと停留所でも歩かなくなってきております。したがって足を使わなくなっておりますので、そのほかの電化製品、冷房、暖房、冷蔵庫、甘味料、食べ過ぎ、美食、そういうことから昭和40年来急に陰虚証の人が増えて参りまして、今までの漢方の使い方では、とても治せなくなってきた状態であります。誠に憂うべきことだと思います。したがって現代人は、意識して体を使うようにしないと体力はどんどん弱って早く老化してしまいます。また勤め人が勤めを辞めますと、急にぼけてまいります。隠居三年と言う言葉があります。これは楽隠居していると、頭も体もぼけて三年でお迎えが来るということであります。

Q 運動がいかに大事かということがわかってまいりましたが、そうしますと、一体どれくらいの運動をしたらばいいのかというところがひとつ疑問ででてくるのでございますが、私も少し走ってみたり、飛んでみたり、先生に言われましてからしたんでございますが、運動の量というものがもうひとつわからないです。先生どのように考えていらっしゃいますか。

小倉 私も最初はどれくらいやったら重い病気が治っていくか皆目わかりませんでしたけれども、そのうちに重症患者が治って行く運動量というのが科学的に出せるようになってまいりました。それはケネスHクーパーが有酸素運動と言う本を書いております。その中で、体重/kg/minで酸素7mlを消費する運動を1点としまして、私のみておる患者は何点になったら治っていくかがそこではっきり出てきておるのでありますが、最低限26点というのがわかってまいりました。26点というと、10kmを1時間で走って26点になります。10kmを2時間で歩いてしまうと、1/4の点数6.5点になります。ですから走る距離と時間で点数が出てくるわけです。26点というのは、もし雨の降ったときなど走れませんから、縄跳びに換算しますと、連続5000回となります。雨降っていきなり5000回できるわけにはいきませんから毎日10kmジョギングした上で2000回は飛んでおくと雨の降ったときに楽になります。これは最小の必要限の運動であります。と申しますのは、ケネスHクーパーはアメリカ空軍の軍医でありますけど、アメリカは肉食が多いので狭心症で死亡する症例がたくさんおります。これに運動療法を取り入れまして、狭心症にフルマラソンをさせるように切り替えました。最初は1km歩いて苦しくなってニトログリセリントローチを飲む。次は2km歩いて飲むと。そういう風にしていって10km走れるようになりますとトローチがいらなくなります。それから先、32.195増やさなければならないのですけれどもそれに踏み切らせてからは普通発作が何回か繰り返されて5年間に6割の死亡率だったそうですけれどもフルマラソンに切り替えてからは1人の死亡者もでなかったということであります。ですから26点で満足しているのではなくて、必要最小限の点数ということであります。

Q わかりました。私も先生に言われて運動を始めたとはいえ、まだとても26点まで達していない、非常に落第生の方に相当するのでございますが、それも運動を始めますと、とにかく背中から肩から腰からバンバンにこって痛くなり足はむくんでしまい、とても10kmなんて気が遠くなる感じなのでございます。こういう経験は病気だからというのではなくてどなたでも経験なさることなのでしょうか。

小倉 私が縄跳びを始めたのはもう10年以上前のことなのですが、馬鹿にしてかかって100回はできると思って始めたのですね。最初はうんと飛び上がらないと、綱がひっかかるものですから、骨が折れる。100回できるはずだったのが、50回で頭が割れるように痛くなって続けられませんでした。癪に触って一休みしてもう一回100回に挑戦しましたら、同じくに頭が痛くなるのが60回。それ以上はできませんでした。そして2-3日すると、今度はトイレでしゃがむのが大変なのです。筋肉痛だとか、動悸、神経痛、頭痛、吐き気、そういったことは今までやらないでいてやりますと、どなたにもみられる現象でむくみなどは朝飯前です。
運動と食べ方には非常に関係がありまして、大抵の人は人格病と言いますと、腹一杯食べたいという人格病が、万病の基本原因になっているのでありますが、この人格病がこう思わせるのです。一食にしたら痩せっちゃうんじゃねえか、栄養失調になるんじゃねえか、仕事にならないじゃねえか、1日堂々巡りをして、入院していてもとうとう買い出しへ行って、内々に食う「内食」を始めます。そうするとその「内食」の多寡に応じて、この10kmジョギングが主治医となってたしなめてくれます。少し余計食べた翌日には、足が重くなってスピードがガタッと落ちる。くたびれてしまいます。もうちょっと余計食べたときには、足の諸関節の関節炎、腱鞘炎が起きて、腫れて痛みます。なかには頭のいい人がいて、黒パンなら自然食でいいだろうと探しにでかけて、こっちの給食以外に二斤も平らげる人が出てきます。もうその翌日テキメンです。走り出した途端10歩もいかないうちに足関節にガクンと捻挫を起こして走れなくなります。ここまで駄目を押さないと人格病の息の根を止めてくれません。誠にしつこいものです。ま、やってごらんになればわかると思います。

Q ま、そうしますと、私がなかなか運動に順応しきれないということは、多分にまだ食べ過ぎであるということになるんでしょうね。深く反省いたします。同時にですね、先生の何かのご本で、陰虚証の体質の人は非常に運動に順応し難いとおっしゃっていたのですが、漢方的な証と運動の順応度については、いかがなものでしょうか。個人差があるのでしょうか。

小倉 大いにあります。体力のある人と中等度の人とない人に分けてみますと、体力のある方は、3日目くらいに10kmジョギングが完成しまして、時間も1時間以内です。体力の中等度の方は、1ヶ月くらいかかりまして、スピードも1時間を越えます。体力のない方は10km走るのに、3ヶ月から6ヶ月くらいまでかかり、スピードも2時間以内くらいになります。

Q 当然、そういう個人差があることがわかりましたが、だからといって病が重い軽いによっても治って行く運動量の差があるような気がするのですが、やはり先生これで最終目標は先生さきほど言われた縄跳びなら5000回、マラソンなら10km、そこにおかなければいけないということになりますでしょうね。

小倉 これはもうどうにもしようがない事実で自然から治る力をもらうのであって、決して他から手助けできることではありませんから辛くとも頑張っていただくよりほかにしょうがないと思います。

Q 先ほど言いました、体力ない方ほど順応するまでのいろんなトラブルが多いと考えられる気がするのでございます。足のむくみはごく当たり前で、腰が痛んだり、食欲がなくなったり、頭痛がしたりなんてことも、それも乗り越えていかねばいけないということになりますね。これも私どもが自分でしなければならない病を治す不可欠の努力とよくわかった気がいたします。ありがとうございました。頑張ります。
この後、私も少しずつ実行しながら出てまいりました、非常に笑われてしまうかもしれませんが、細かい疑問がいくつかございますし、また友人知人などから聞かれておりますこともいくつか何項目あるのでございますが、それについてお答えいただくということでお願いできますでしょうか。

小倉 承知いたしました。

Q ただいまの鍛錬の話の続きのようなことになりますけれど、風邪をひいたときにマラソンは含めて運動はしてもよろしいものなのでしょうか。

小倉 寒い風にあたってジョギングすると風邪をこじらせますので風の当たらないところで縄跳び5000回くらいやって汗をかいてしまうと治ってしまいます。ただし汗はシャワーや風呂で流さないで乾拭きにしないようにしないと、悪化させます。

Q 同時に今度は足の痛い時の運動なのでございますが、ま私などは先ほど指摘されたので余計に食べているのでなかなか順応できないことでお恥ずかしいのでございますが、足の痛い時に実際問題それを無理してでも歩いた方が走った方がいいのかどうか、あるいは少し休ませた方がいいのか、その辺のところがもうひとつわからないのです。いろいろありますが。

小倉 うんと痛いときには、走り出すと痛くなって走れなくなります。また少し痛い時には3km越える頃から痛みが薄れ出して10km走ってしまえますともっと軽くなります。

Q そうしますと3km越えて痛みが薄らいでくるときにはそのまま走り続けてよろしいということになりますね。

小倉 そういうことになります。

Q その足の痛みと食べ物とも関係があるというお話をいただいたのでございますが、これは準備運動なんかとも関係があるのではないかという気がしているのでございますが、その辺はいかがでございますか。

小倉 ストレッチングをやる時間があれば、それもよろしいのですが、それなしにやろうというときには、最初の1kmか2kmをゆっくり走ってそれからスピードを出すようにすれば、ゆっくり走ることが準備運動になります。

Q それともう一つお伺いしたいのは、ルームランナーというのが最近非常に流行っているのでございますが、あれなんかでもよろしいのでございますでしょうか。

小倉 私のところでは、そういう金のかかる道具は使わないようにしています。

Q 実際問題として、田舎の方にお住まいの方はよろしいのですけど、都会でアパート暮らしという方になりますと、なかなか運動する場所を確保するのが難しいのでございます。外でやっても響くからという苦情が出たりいたしますので、縄跳びなどもなかなかものならないということもあるのでございますが。そうしますと都内にお住まいで公園にでも行けばできるのですが、雨の降った日などは叶いませんし、そういう何か上手い運動の方法がございますでしょうか。

小倉 いろいろありますけれど、お年寄りで走ったりできない方には、北海道を旅行しますと、檻の中に熊が入れられておりますと、その熊は一刻もじっとしていないで行ったり来たりして動いております。これを見てきた医者が檻熊運動を発案しまして、6畳でもいいし、廊下でもいいから、行ったり来たりして100歩歩くと指を1本折る。10本折れば1000歩になります。そうしたらマッチ棒を1本置く。マッチ棒が10本になったら1万歩になります。これはお年寄り向きの運動ですし、誰がやっても非常に楽でして、場所もくいませんから、こういう方法もとてもいいと思います。これはただし酸素はあまり入りません。しかも楽すぎるので、それよりももっと音をたてないでやる運動となりますと、屈伸足踏みという方法があります。屈伸というのは、尻を踵まで下ろすのが屈伸。屈伸を10回のうち、真ん中の5は伸ばす。10も伸ばすと、それを屈伸を10回やった後で、その場で足踏みを20回いたします。これを10回繰り返す。200回目になると、屈伸、伸ばす、屈伸、伸ばす、という風に10回のうち半分を伸ばします。その後でその場で足踏み20回。それから300回目になりますと、10回の全部を伸ばします。その後でその場で20回足踏み。400回目になると、それを逆にやっていきます。全部を伸ばす。足踏み20回。500回になると、1回ごとに伸ばす。足踏み10回。600回目になると、5と10を伸ばす。その後で足踏み20回。これですと音を立てないで出来ます。ただしかなりきついです。

Q 縄を使わないでもそういううまい方法がございますのですね。
ただ今お話を伺っただけでは具体的に屈伸の入れ方がもう一つわかりにくかったのですが、これは何か表のようなものになっていますのでしょうか。

小倉 いらっしゃればやってもお見せしますし、それから表にもなっています。

Q ああそうですか。では後ほど私にお見せいただきたいと思います。それともう一つお聞きしたいのが早朝のジョギングなんでございますけれど、仕事なんかの関係で、特にお勤めしている方はなかなか朝でないと時間がないという方が多いのでございますが、私一つ感じたことは私も朝早く4-5km走ったことがあるのでありますが、非常に顔手足がむくむのでございます。それが仕事の都合でお昼休みに切り替えましたときに、ほとんど同じ5km走ってもむくまずに済んだという経験があるのでございますけれど、これは何か基本とか体質とか関係があるのでございましょうか。

小倉 最近は陰虚証の方が多くて、特に冬の早朝ですと、冷え込んでしまいます。かえって有害になることもありますから、お昼は食べないのですから、昼休みの時間に縄跳びかなんかされるようにした方が良いと思います。

Q どうしても朝でなければ時間がとれない場合には、逆に何か厚着か何かして工夫しなければいけないということになりますかね。

小倉 そういうときは下着に毛を着まして、手袋も二重にして、ウィンドヤッケ黄色いのが薄暗いとき、車から見えてよろしいのですので、ウィンドヤッケで目だけ出して走るようにするといいと思います。

Q 早朝にはそれなりの工夫をしなければいけないということでございますね。
私にも何人かのジョッギング仲間がいるのでございますが、中には平気で2-3日10km走って気分爽快と喜ばれている方もいらっしゃるし、いろいろあるんでございますが、一人どうしてもたった3kmか4km走るだけでその日の仕事がなかなか疲れて出来難いということをこぼす方がいらっしゃるおでございます。先生のお話、あるいは10kmを軽く走る方のお話を総合しますと、朝走ってしまうとその日1日非常に気分爽快でよくできるということなんですが、どうもそのことが実感として味わえない、疲れてしかたない、玄米菜食がスタミナをつけないことを非常に気にしてる者がおりますです。スタミナというのは、もともと動物食を沢山摂ればつくと、私はつい最近まで思い込んでいたのでございますけれど、一つスタミナについて先生、お話もう少しお聞かせいただければと思うのでございます。

小倉 スタミナというのは長く疲れずに働けることだと思います。それには食べ方と鍛錬の正しさが必要だと思います。今、ヘルスメーターという言葉がありますが、これは体重があった方がスタミナがあるという風な概念から生まれた名前だと思いますが、こういうところに大きな誤りがあると思います。
多く食べた翌日は、足が重くなってスピードがガタッと落ちて疲れるとそういうことを申しましたが、これは事実であります。陰虚証の方が10km走るまでは疲れが残るのは当然ではあると思いますが、普通の10km楽に走れる方ですと、朝のうち走って酸素を沢山入れてしまいますと、その日の重労働が楽になります。日本の昔を偲んでみますと、戦国時代の武士は鎧、兜、刀など40kg以上の武装をして飛び回って玄米のほしい片手一杯に梅干しのおかずで1日2回しか食べなかったそうです。この当時のオランダ宣教師が国に報告したところでは、日本人は勤勉で、睡眠も短くて非常に人も良いと、そういう報告でありますから、この自分には今のようなスタミナに対する考え方は持っておられなかったはずであります。粗食でいながらも玄米菜食ですと疲れずに働けるというひとつの実証にはなると思います。最近ではロンドンオリンピックに出場した豪州のローズという水泳の選手はお母さんが同道して菜食を作ってあげていたそうですが、各種目に金メダルを獲得しております。日本では戦後食料不足のときに、古橋選手、橋爪選手などが水泳で好成績を挙げて我々を喜ばしてくれました。アメリカの水泳監督が大豆タンパクの優秀性に気づいて水泳選手に肉食をやめて大豆を食べさせるようになってからアメリカの水泳会の好成績が見られました。逆に日本では、昔のような、皆さんが考えておられるようなスタミナ食をとっておりますが、今の沈滞ぶりはお分かりだと思います。肉食獣と草食獣を比べてみますと、肉食獣は瞬発力は強いのですけれど、車で長く追われるとたちまち疲れて血へどをはいて倒れるそうです。ところが草食獣ですと、走るのが長く続いて肉食獣のようなことが起こらないそうです。いわゆるスタミナ食が万病の基本原因になっており、その誤りにそろそろ皆さんが気づかれてもよいのではないかと思っております。

Q 全く先生のおっしゃる通りと思います。確かに私の子供の頃は芋類、雑穀きり、ほとんどございません。それもお腹一杯食べたという記憶はございません。それでも1日走り回って非常に元気でしたし、疲れたという記憶がございませんし、母などは子供に食べさせるために、私たちよりも余計少なかったのではないかと思いますが、特別病気もしないで、朝暗いうちから夜暗くなるまで働き通していたような気がいたします。今までの生活の誤りが人並みの運動もできなくなるくらい、体力を落としてしまったという現代人が本当に情けないという気がいたします。これにつきましても、やはり本人の努力あるのみというところがわかったような気がいたします。この後、食べることにつきましての、いくつかの質問が手元にございますので、これについてまたお聞かせいただければと思っております。よろしくお願いいたします。

小倉 牛乳というのは動物食品になりますので、もちろん、精進料理から外れるはずなのですが、カルシウムが非常に豊富で成長盛りの子供には特に沢山摂った方が良いということが奨励されているのですが、カルシウムを摂るために牛乳などはいかがなものなのでございましょうか。

小倉 牛乳というものは、牛の赤ちゃんが飲むもので牛の赤ちゃんは青草から十分カルシウムが摂れるので、おっぱいの中にカルシウムイオンは必要としません。そこで牛乳の中のカルシウムというのは、はや骨になれるカルシウムイオンから成り立っているのではなくて、蛋白カルシウムといって骨や歯になれないカルシウムが多いのです。世界有数の酪農國であるニュージーランドでは、朝から晩までひしゃくで飲むほどに豊富にあるそうですけれど子供から老人に至るまで歯っ欠けばかりだそうです。

Q そうしますと豆乳というのが自然食品店なんかによくありますが、豆乳なんかではいかがでございましょうか。

小倉 あれは豆腐と同じく加工品で、何か欠けている大事な要素があるらしくて、豆腐を長く食べると、ひどい貧血を起こすと同様に、豆乳も原材料ですから貧血を起こします。あれは非常に冷やすので豆乳を止めただけで子供の寝小便が止んだという話も聞いております。

Q 同じく動物性たんぱく質はお母さん方の関心のあることなのですが、発育盛りの子供には動物性たんぱくがやはり必須なんじゃないかということなんですが。

小倉 これは昔生臭坊主という言葉がありながらも、海に囲まれた日本では魚は結構取られていたようなのでございますし、先生がおっしゃる精進料理から外れていることは十分承知していますが、発育盛りの子供には全く動物性の食品がなくていいかということを、くどいのですが、お話しいただきたいと思うのでございます。

小倉 それは一つには必須アミノ酸が取れないのではないかという懸念だと思います。大豆や緑色の野菜をとっておれば十分に必須アミノ酸が取れます。また昔の人は魚も食べていたと思いますが、それについて調べたいい例があります。山地へ逃げた平家は漁業権がなくて海草くらいしか拾えなかったのですが、海岸に住む漁業権のある人たちは十分に魚も食べていたようですが、どちらが寿命が長かったかというと、山中に住む者の方が遥かに長かったそうです。現在でも山梨県の山奥の棡原というところでは交通の発達しないうちは、魚などは食べられなくて、食べてもせいぜい川魚くらいだったそうですが、それも妊娠すると禁じられたそうです。そうするとおっぱいが十分に出て、先生おっぱいを止めてくれと頼みに来る人さえあるくらいだそうです。そして交通機関が発達してからの棡原は若い人が年寄りも先に亡くなってしまうそうです。昔の棡原の人たちは段々畑を耕して重労働をしながら月経が(テープここまで)

(2020年5月 伊藤隆 テープ起こしをする)

<小倉重成思い出アルバム>

戦前~戦後

軍医として佐倉連隊に所属。後列向かって左が小倉先生(1945年)
軍医として佐倉連隊に所属。
後列向かって左が小倉先生(1945年)

親族らと
親族らと。中列向かって左から姉・永、母・せい、
父・梅太郎、 後列向かって左端が長兄・政次郎、
4人目が次兄・康次郎、右から2番目が小倉先生

木更津駅前の小倉眼科医院玄関前にて
木更津駅前の小倉眼科医院玄関前にて
前列は両親、後列向かって左は妻・時子

木更津に医師会が作った看護婦学校に、毎週講義に行った。
木更津に医師会が作った看護婦学校に、
毎週講義に行った。卒業式(1948年ころ)で、
前列向かって右端が小倉先生

マラソン、坐禅

夏は上半身裸で走った。
夏は上半身裸で走った。
医院ができた当時の周囲は、一面の蓮田だった。

肌は「小倉色」に日焼けしていた。
毎日走るために、肌は「小倉色」に日焼けしていた。

小倉眼科医院恒例のマラソン大会(1976年)。
小倉眼科医院恒例の
マラソン大会(1976年)。
左に見える建物が小倉医院。

毎朝坐禅を組み、患者の指導にも取り入れた
毎朝坐禅を組み、患者の指導にも取り入れた

山行 山歩きをこよなく愛した

山歩き山歩き

苗場山にて(1977年7月)
苗場山にて(1977年7月)

山歩き

八ヶ岳にて(1978年7月)
八ヶ岳にて(1978年7月)

休日には入院患者とも山歩きを楽しんだ(1980年頃)
休日には入院患者とも山歩きを楽しんだ(1980年頃)

最後の本格的な山登りとなった北岳
最後の本格的な山登りとなった北岳
(1986年8月1日、74歳の誕生日)

漢方関連の活動

奥田謙蔵先生17回忌(1977年)。向かって左から3人目が小倉先生
奥田謙蔵先生17回忌(1977年)。
向かって左から3人目が小倉先生

千葉県教育功労賞受賞祝賀会(1978年)
千葉県教育功労賞受賞祝賀会(1978年)

『漢方の臨床』25周年記念祝賀式
『漢方の臨床』25周年記念祝賀式にて(1979年6月)

関東鍼灸学校初代校長に就任(1979年)
関東鍼灸学校初代校長に就任(1979年)

関東鍼灸学校入学式(1980年頃)
関東鍼灸学校入学式(1980年頃)

中国での講演
中国での講演

小倉眼科医院での小倉先生

小倉眼科医院での小倉先生小倉眼科医院での小倉先生

小倉眼科医院での小倉先生

千葉大学東洋医学自由講座の学生(三潴忠道ら)と(小倉家2階にて)
千葉大学東洋医学自由講座の学生(三潴忠道ら)と
(小倉家2階にて)

診療時間以外は、読書や書き物に費やした
診療時間以外は、読書や書き物に費やした

自家製の梅干しは自宅前で干し、小倉先生自らも梅を裏返す作業を行った
自家製の梅干しは自宅前で干し、
小倉先生自らも梅を裏返す作業を行った

塩加減を変えた沢庵を、毎年、四斗樽で4~5本分ほど漬けた
塩加減を変えた沢庵を、
毎年、四斗樽で4~5本分ほど漬けた

自宅横には自然農法の畑(1986年ころ)
自宅横には自然農法の畑(1986年ころ)

小倉眼科医院入り口
小倉眼科医院入り口

医院(北西)
医院(北西)

医院(南側)
医院(南側)

医院(東側)
医院(東側)

小倉眼科医院見取り図
小倉眼科医院見取り図

写真提供:小倉文子 伊藤隆

<主な著書>

  • 『自然治癒力を活かせ』創元社、1973年(1986年第6版まで改訂)
    →2007年オンデマンド版、2014年電子書籍版
  • 『一日一食健康法』講談社、1978年
  • 『漢方概論』(東洋医学選書)藤平健共著、創元社、1979年
  • 『傷寒論による 漢方と鍼灸の統合診療』創元社、1983年
  • 『無病息災の食べ方』自然社→緑書房、1987年(1996年に改訂版)
  • 『臨床・漢方問答-漢方研究室-』上巻・下巻 医道の日本社、1989年
    『古醫學研究』で連載が始まった「漢方研究室」が、1960年の同誌休刊後は『漢方の臨床』で復活。臨床例を出題し、答案を募集し、応募答案を勘案しながら著者が解答するスタイルで、掲載は155回に及んだ。小倉の逝去後に矢数道明らが整理し出版した。
  • 『傷寒論解釈』医道の日本社、1991年
    小倉の三周忌に合わせて、「倉門会」での講義をまとめて出版したもの。

<取材協力・資料提供>

三潴忠道(福島県立医科大学会津医療センター)
伊藤隆(東京女子医科大学東洋医学研究所クリニック)
盛克己(小倉記念木更津アカデミー・盛クリニック)
小倉記念木更津アカデミー2015年参加者(盛克己、伊藤敦之、並木隆雄、佐藤喜和子、笠原裕司、手塚安子、川戸幸子、木曽田理絵、佐々木淳一ほか)
小倉文子

<取材・文>

兒玉由佳

<参考資料一覧(順不同)>

  1. 千葉大学医学部東洋医学研究会三十年史』1969年
  2. 千葉大学東洋医学研究会五十年史』1990年
  3. 自然治癒力を活かせ-難病治療の決め手-(第6版)』1986年 創元社 2007年オンデマンド版
  4. 無病息災の食べ方(増補改訂版)』東洋医学新書 1996年 緑書房
  5. 九十九小径』1991年 講談社出版サービスセンター
  6. 漢方・わが人生の遍歴」『漢方研究』2013年4月号、6月号 たにぐち書店