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Vol. 1 死体取扱に関する諸問題の解決へむけての一考察

岩瀬 博太郎(千葉大学法医学教室)
北口 雅章(弁護士・名古屋弁護士会所属)

1. 我が国の検視をめぐる実情

 検視規則によれば、検視に当たっては、死因(特に犯罪行為に基因するか否か)を「綿密に」調査すべきであり、死因調査のために必要があれば、「立会医師の意見を徴し」なければならない、とされており、中毒死の疑いがある場合は、「毒物の種類」も「綿密に」調査しなくてはならない、とされている。このような規定をもつ検視規則を,文字通り素直に解釈すれば、検視にあたっては,医師による事件性の鑑別、犯罪鑑識を主目的として、医師による当該死体の「綿密な死因調査」が求められているのであって、「綿密な死因調査」の前提として、しかるべき医学的・科学的な検査の実施が予定されていることは明らかである。もとより、かかる検視規則の予定する「綿密な死因調査」を実施するためには,相応の検査費用等の「経費」がかかることは当然である。そこで、警察法施行令第2条では、「犯罪鑑識に必要な検案解剖委託費」は国庫が支弁することと規定している(「犯罪鑑識」とは犯罪の有無を科学的に判定することをいう)。もしこれらの法文に忠実に検視実務が運用されているのであれば、例えば,仮にバイオテロと呼ばれるバイオテクノロジーを駆使した毒物感染を手段とするハイテク他殺事件が発生しても、その死因の鑑別、犯罪鑑識のために何ら問題は発生しないだろう。

 ところが現実には、上記検視規則や警察法施行令の法文は残念なことに殆ど空文化しており、当該法令が予定する「綿密な死因調査」、「国庫による経費支弁」とは,およそかけ離れた法令違背の運用がまかり通っているが、このことは一部専門家を除き殆ど知られていない。具体的には、検視に立ち会った医師(検案医)には、検査費用が一切支払われていないのであって、警察が検案医に支払う費用は,「謝金」名目の3000円に過ぎない(一方、遺族が支払っている費用があるが、それは検案書作成料であって、検案委託費ではない)。従って、検案に立ち会う医師としてはお金のかかる検査は一切できず、原始的な外表検査だけで死因判定をせざるをえない状況におかれている。法文上で、いくら検案の際医師の意見を参考にして「綿密な死因検査」をせよと義務づけても、検査手段を与えられない医師など、たとえ経験のある立派な監察医であったとしても、停電で作動しなくなったコンピュータを前に挙手傍観するコンピュータ技師のようなものである。そのため、警察官が遺体の外表観察と周囲の状況等から犯罪性がないと思い込み、その方向での死体処理を検案医に求めれば、検案医としては医学的・科学的な検査データを示すことができないため、少々の疑問をもっただけでは警察の判断に殊更異を唱える面倒を厭い、多くの死因を病死として処理してしまっているのが実情である。しかしながら,見た目には異常の無い死体であっても、その中には腹部外傷のために内臓損傷を起こしてる死体や,毒殺された死体も紛れ込んでいる可能性を否定できない。また、交通事故に際しても、医学的な画像所見なしに,死因を頚椎骨折や内臓破裂として処理してしまったが故に、後に正確な死因を巡って問題が発生することも多々あるようである。このように、検視に関する法令の建前と,現実の運用との間には大きなギャップが厳然として存在するのであって、その原因を突き詰めていくと、結局は,経費負担の問題、即ち、警察法施行令第2条の空文化という法令違背の悪しき慣行の問題に行きつくのである。東京23区において、東京都監察医務院が取り扱った年間約1万体の死体の検案と、2500体の解剖を実施するのに東京都が支出した経費が3億5千万円(常勤職員の人件費を除く)であったのに対し、東京23区を除く全国において,警察が取り扱った,年間13万体の死体の検案と、5000体の司法解剖に対して,国庫から支払われた費用が3億4千万円であるという。この統計をみただけでも、警察が全国の津々浦々で実施してきた検案・司法解剖が如何に「綿密な死因調査」とはかけ離れたものであったか、推して知るべしというべきであろう。

2. 医務院制度の無い地域での検視をめぐる問題

 東京都や大阪市など5つの都市には、死体解剖保存法第8条に基づいて、多くは地方自治体の費用負担の下に監察医制度(「医務院制度」ともいう)が採用されている。これら医務院制度のある地域では、変死体が発見されれば監察医による検案が行われ、検案時に外表面のみの目視・検査だけでは死因不明とされても、行政解剖によって比較的慎重に死因の究明を行うことができる。しかし、監察医制度のない日本全国殆どの地域においては、医師が警察から変死体の発見現場に呼び出され、外表検査をしても死因不明と判断した場合、さらに「綿密に」死因調査をすべくCT検査や解剖を依頼しようにも実はできない仕組みになっている。まず、CT検査等の“お金のかかる検査”をしようにも、お金は誰にも払ってもらえない。また、司法解剖ではないので、解剖実施を認める法令上の根拠がなく、従ってその経費負担者も存在しないことになるからである。

 但し、ごく例外的に、県費をもとに準行政解剖(承諾解剖)が実施される場合はある。しかしながら、この準行政解剖は,死体解剖保存法第1条にいう「公衆衛生の向上を図るとともに、医学(歯学を含む。以下同じ。)の教育又は研究に資する」ための解剖で、その法的位置付けは、各病院において自主的に行われる病理解剖の法的位置付けと全く同様である。即ち、準行政解剖の最大の問題点は、病理解剖と同様、費用負担者に関する法規定が存在しないことである。現在、殆どの地方自治体は財政困難に陥っており、法的な根拠無く地方自治体の財政で解剖費をまかなわせるというのは非現実的である。監察医制度のある横浜市でさえも、解剖への財政支援の打ち切りをしたという報道があった。また、京都市と福岡市においては,かつて監察医制度が存在した時期もあるが、既に財政的な理由などにより監察医制度は廃止されている。そのような状況下で、準行政解剖や医務院制度を地方自治体の負担で機能させようとしても、解剖実績があがる筈もないことは自明であろう。したがって、多くの法医学者の間で叫ばれている「医務院制度を全国に広げよう」という医務院待望論は、解剖・検案経費について法令による資金手当がきちんと確保されない限り、適当とはいえないであろう。法医学会が、医務院制度を全国展開させるためには、少なくとも政府に専門的な法令調査委員会・諮問委員会を設置してもらい、検案・解剖等の経費負担に係る関連法規(警察法施行令など)を改定・整備する方向で充分な議論をする必要があるだろう。しかし、このような議論の必要性に関する現在の行政当局・立法当局の認識は現在の所、先行きが明るいとはいえない。

3. 現状を打開するために

 現在医務院制度の無い地域では、法医学と直接関係のない臨床分野の開業医が警察医として変死体等の検案に立ち会っているが、そのこと自体が問題であるという議論は、実は本質的ではない。なぜなら、仮に、警察医に代わって変死体の検案・解剖を専門とする監察医を置いたとしても、監察医が正常に活動するための費用(人件費や、CT等の画像検査、薬毒物検査、解剖などの諸検査費用)について、誰がどのように負担するのかという経費負担の問題は相変わらず残るからである。

 結局は、医務院制度の無い地域での死体取扱の適正化への第一歩は、行政当局に対し、警察法施行令第2条の規定を遵守し、医師に対する検案の「委託費」をきちんと国庫から支弁させるよう働きかけることであるように思える。死体を検案した医師が、目視や状況聴取の段階で死因不明と判断した場合、CT検査や薬毒物検査、解剖検査など死因解明の手段を経費のことを心配せずに心おきなく自由に選択・実施し、それに要した経費が全て国庫から自動的に支給される、といったシステムが構築されるならば、検視実務における死体取扱は格段に正常化し、検視規則が本来予定している理想に近づくであろう。

 また、医務院制度のない地域において、準行政解剖の経費に関して法的根拠を欠く現行制度のもとでは、当面はできる限り司法解剖が選択されるべきであろう。そしてそのためには、死因不明死体の取扱いとして、薬物使用等による被疑者不詳の傷害致死事件の嫌疑を理由として裁判所の鑑定処分許可状を求めるよう警察官に指示するなど、できる限り刑事訴訟法第223条および225条に準拠した司法解剖の手続のルートにのせる努力・工夫も必要であろう。

4. 司法解剖の費用に関する問題について

 大学の法医学教室で行われている司法解剖は、従来から、多くの問題を抱えてながら行われてきた。例えば、鑑定に必要な諸検査を行うための設備は老朽化したままで更新できない、1教室に医師1?2名では鑑定や検査の品質管理もままならない、後継者が育成できない、鑑定書が提出できない、必要な検査、特に毒物や組織検査が充分にできていないなど、各施設ごとに抱えてきた問題点は様々であると聞く。

 では、何故このような問題が発生するのだろうか? いうまでなく、これら問題の根底には,支給される解剖経費の極端な貧弱という,暗澹たる問題が存在するのである。解剖数が増え,施設業務の需要が増えてきた場合、施設や人員を増大・増員できるだけの予算を確保することが、大学の法医学教室運営にとって絶対必要な条件であることは,社会常識に属する事柄であると思われるが、このような社会常識は,何故か法医学の分野では通用してこなかった。そのため、現在では、法医解剖の実施機関である法医学教室が,大学法人の組織として生き残れるかどうかの瀬戸際にさえある。なぜなら、大学法人の本務は、研究・教育であって、警察の捜査協力ではないからである。

 千葉大学で算定した司法解剖に要する経費は、約22万円(解剖以外の諸検査を除く)である(千葉医学雑誌79、235-241、2003参照)。また、Medicolegal Death Investigation System: Workshop Summary (2003)では、アメリカ合衆国における平均的な法医解剖の経費は、一体当り2000?3000ドル(1ドル107円とした場合、約21万円?32万円)とされている。そして、日本の病理学者の多くが、病理解剖にかかる経費も一体当り20万円程度と述べている。これらのことからも、解剖に必要な経費の適正価格は,一体当り20?30万円とするのが相当である。

 一方、法律の原則からすれば、鑑定嘱託は民法上の準委任契約にあたり、鑑定に必要な諸経費は嘱託者に請求できることから(民法第643?656条)、鑑定経費の負担者は鑑定嘱託者たる都道府県ということになるが、警察法施行令第2条では、かかる民法の原則を修正して解剖委託費は「国庫が支弁するもの」と規定している。したがって、司法解剖の経費はその全額を国庫が県警経由で負担すべきこととなる。ところが、現状で支払われている鑑定経費の支給額は、解剖死体1体につき,文書作成料としての「謝金」7万円にすぎない。このような法令に違背した,経費負担の運用状況を行政当局が改善し、解剖死体1体につき20万円相当の経費が支給されるようになれば、解剖数・解剖実績に見合った設備と人員の整備が可能になり、大学法人における法医解剖の実施状況は大幅に改善されることは間違い無い。しかし、鑑定経費の支給額が20万円を下回っている限りは、大学法人の赤字が増大するばかりで,かくては,法医学教室は大学法人にとって“厄介なお荷物”,“金食い虫”とみなされることとなり,法医解剖の衰退は必定である。この意味で,解剖死体“一体当たり20万円の壁”こそが,法医解剖の浮沈がかかっている閾値である。

5. 結語

 検視実務・死体取扱に関する我が国の法規の理念自体は、他国に比べても遜色無く、誠に立派なものである。しかしその運用の局面、特に経費負担の面では極めて不十分な資金手当しかなされてこなかったため、我が国の検視実務・死体取扱の実態は明治時代のそれと何ら変わらず、非科学的な原始状態のまま放置されてしまってきているものと考えられる。従って、費用面での運営の適正化こそが、死体取扱の正常化のために急務である。

 一方、医務院待望論は、確かに東京都での運用状況をみる限りは傾聴に値するが、遺族負担で解剖を行っている横浜市のような例もあり、解剖・検案の経費負担に関する関連法規の整備を抜きにして、医務院制度の管轄区域を拡張するだけで行政解剖の適正化が図られるとは思えない。また、仮に日本全国に(準)行政解剖の施設を作ったとしても、現行法制を抜本的に変えない限りは、増え続ける犯罪死体の処理は、結局大学の法医学教室で対応せざるを得ず、次には,司法解剖の経費問題が未解決問題として浮上してくることになる。

 いずれにせよ、近い将来我々法医学者は、検案・解剖をめぐる現行システム・運用を抜本的に改める必要に迫られるであろう。警察庁等の行政当局としては、国家予算のスリム化を図りたいがために、あえて警察法施行令第2条を無視し、犯罪スクリーニングに関わる解剖・検案費を県費負担としたい思惑があるのかもしれない。また、法医学者サイドも、それに応ずるような形で、医務院待望論という県費・遺族負担の方向に乗せられてきたようにも見える。確かに,医務院待望論の方向性は,経費負担法制の抜本的な法改正を志向するものであれば傾聴に値するが、残念なことに、現在のところ、検視実務に関し政府内ではそのような法改正・運用是正に向けた議論の必要性についての認識が全く欠落しているように見える。今のままでは、行政当局の対応は、警察法施行令第2条を無視することで行政解剖の粗雑化を招くとともに、司法解剖の経費負担を大学法人に押しつけ、法医学教室を“大学法人内の金食い虫”の地位に追いやっているといっても過言ではないだろう。かくては,近い将来、法医解剖システムは崩壊・破綻を免れないだろう。

 翻って考えれば、死因判定は医師が行わなくてはならないにも関わらず、検視・検案実務で、死因究明に必要な検査手段の導入に関し医師の意見が全く反映されないようになってきた現行システムは、そもそも不合理かつ異常なのものであったと言わざるをえない。このために、変死体の取扱方法が時代遅れなものとなり、杜撰かつ非科学的なものとなってきたと考えられる。近い将来、政府が、死体取扱に関する現在の問題状況を自覚し、医師を含めた調査委員会・諮問委員会を開いて抜本的な法令・運用改正に向け、真摯に取り組むことが日本社会の平和と安全を護るために絶対に必要である。

(参考)
検視規則第六条
検視に当つては、次の各項に掲げる事項を綿密に調査しなければならない。
 
一 変死体の氏名、年齢、住居及び性別
二 変死体の位置、姿勢並びに創傷その他の変異及び特徴
三 着衣、携帯品及び遺留品
四 周囲の地形及び事物の状況
五 死亡の推定年月日時及び場所
六 死因(特に犯罪行為に基因するか否か。)
七 凶器その他犯罪行為に供した疑のある物件
八 自殺の疑がある死体については、自殺の原因及び方法、教唆者、ほう助者等の有無並びに遺書があるときはその真偽
九 中毒死の疑があるときは、症状、毒物の種類及び中毒するに至つた経緯
2 前項の調査に当つて必要がある場合には、立会医師の意見を徴し、家人、親族、隣人、発見者その他の関係者について必要な事項を聴取し、かつ、人相、全身の形状、特徴のある身体の部位、着衣その他特徴のある所持品の撮影及び記録並びに指紋の採取等を行わなければならない。
警察法施行令第2条 
法第37条第1項の規定により、同項各号に掲げる経費で、国庫が支弁するものは、次に掲げるものとする。
4.指紋、手口、写真、法医、理化学等による犯罪鑑識に関する施設の新設、補修その他その維持管理に必要な経費(警察署並びに派出所及び駐在所における犯罪鑑識に必要な施設費及び消耗品費を除く。)、犯罪鑑識に必要な検案解剖委託費及び謝金並びに第8号に掲げる犯罪の犯罪鑑識に必要な旅費その他の経費
死体解剖保存法
第一条 この法律は、死体(妊娠四月以上の死胎を含む。以下同じ。)の解剖及び保存並びに死因調査の適正を期することによつて公衆衛生の向上を図るとともに、医学(歯学を含む。以下同じ。)の教育又は研究に資することを目的とする。
第八条 政令で定める地を管轄する都道府県知事は、その地域内における伝染病、中毒又は災害により死亡した疑のある死体その他死因の明らかでない死体について、その死因を明らかにするため監察医を置き、これに検案をさせ、又は検案によつても死因の判明しない場合には解剖させることができる。但し、変死体又は変死の疑がある死体については、刑事訴訟法第二百二十九条の規定による検視があつた後でなければ、検案又は解剖させることができない。
2 前項の規定による検案又は解剖は、刑事訴訟法の規定による検証又は鑑定のための解剖を妨げるものではない。
監察医を置くべき地域を定める政令
内閣は、死体解剖保存法(昭和二十四年法律第二百四号)第八条第一項の規定に基き、この政令を制定する。
死体解剖保存法第八条第一項の規定に基き、次の地域を定める。
 東京都の区の存する区域、大阪市、横浜市、名古屋市及び神戸市