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Vol. 8 診療関連死を巡っての議論に関して法医学から思うこと

千葉大学大学院医学研究院法医学教室 岩瀬博太郎

はじめに

広尾病院事件、大野病院事件などを契機に、異状死についての議論が盛んになった。こうした議論の中には、医療現場への警察介入の原因が医師法21条(異状死届け出義務)の拡大解釈にあると考え、「明らかな病死以外のすべての死」を異状死とする異状死ガイドラインを作成した法医学会に対して批判的な意見もある。しかし、広尾病院事件などでの異状死届け出義務違反での立件・起訴は、業務上過失致死罪を立件・起訴する手続きで、捜査の便宜上使用されたに過ぎず、仮に医師法21条を改正しても、死亡診断書に「病死及び自然死」と記載があることをもっての虚偽診断書作成など、その他の罪名で捜査機関はいくらでも医療現場に介入可能との話も聞く。診療関連死が刑法で業務上過失致死被疑事件として扱われる可能性のある限り、医師法21条を改正しても、医療現場への警察の介入は防げない。それゆえ、異状死の定義を巡って、法医学会へのバッシングを繰り返しても、有意義とは思えない。むしろ、法医学会の異状死ガイドラインが作成された背景こそ正しく認識されるべきとも思われる。日本においては、異状死届け出に始まる死因究明の制度が、諸外国に比べて極めて貧弱であり、近年増大しつつある国民の安全・権利意識に対応できなくなっているのはまぎれもない事実である。犯罪発見の端緒としてのみ異状死を定義づけ、そうした事例のみが警察に報告され、死因が究明されるだけでは、事故死や過労死などの死因究明・予防対策ができないばかりでなく、皮肉な結果として犯罪までもが見逃され、国民の権利・安全の維持が困難になっている。医療版事故調査委員会(事故調)の議論を見ていても、第三者機関に報告すべき事案の範囲が広くなる傾向があるが、これも世論が国民の権利維持に向かっていることの証であろう。届け出先が、現在のような死因究明に関して未熟な所轄警察署であるべきかどうかや、増加する解剖すべき死体を既存の解剖実施設備と人員でカバーしきれるかどうかについては解決すべき問題があるが、異状死を犯罪発見の端緒としてのみ定義づけ、それのみについて、死因究明がされるべきとすることは、向上しつつある国民の権利意識に反することであり、将来にわたって、国民に支持されるとは思えない。それこそが、法医学会の異状死ガイドラインが作成された主旨であったと思われる。

法と医をめぐる議論の中での法医学の不存在

一連の診療関連死問題の議論を見ていると、医師、法律の専門家、ともに、実際にどのように死因が究明されるべきかを無視して議論がされてきた印象を受ける。国会の答弁などでは、警察に届け出られるべき異状とは、法医学的異状とされているにも関わらず、議論に法医学の関与がほとんどないことも影響してはいないだろうか。

法学者や法曹関係者からは、「刑事裁判は、真実究明とは程遠い」といった意見が出されている。確かに彼らの言うとおり、我々法医学者から見ていても、刑事裁判の結果は時として、裁判前の手続きでなされた不適切な事実認定に基づいており、不当な判決が下される場合がある。しかし、そのような意見を持つのであれば、そうした司法解剖などを含む、本来厳正かつ公正、慎重であるべき手続きについて、社会正義の実現を本務とする専門家が、なぜ、これまで、不適切のまま放置しつづけたのだろうか。法曹の自浄能力こそ疑問であるし、それこそが国民としては恐怖である。しかも、診療関連死の問題だけでなく、冤罪事件の続発や、交通事故死や災害死での問題など、他の分野でも同様の現象が起きているのに、診療関連死問題についてのみの意見として提示されるのも、不可解である。弁護士や検事などの法曹関係者は、裁判前に適性に実施されるべき事実認定制度の最大のユーザーであるはずだ。そうした者が、これまでそうした制度の信頼性について無関心で有り続けたとすれば、そうした彼らの怠慢も責められるべきだろう。弁護士は、儲けにならない刑事訴訟には無関心であり、検事はやっつけ仕事で起訴・有罪判決が出さえすればいいとだけ考え、法学者は自分の学説が一部でも政策として実現すればそれでよいとだけ思ってきたところはないのか。そう考えると、診療関連死の諸問題は、必ずしも医療者側だけの問題で発生したようには思えない部分がある。法律の専門家も反省すべき点は、反省していただけないものかと、法医学の立場から切に願っている。

一方、医療側については、臨床一般で考える死因と法的・社会的死因とを混同している印象をうける。医師が、病死と思っても、法的・社会的には他殺とされるべき事例がある。たとえば、ある者が、殺害する明確な意図を持って、ピストルを撃ち、弾は外れたが、撃たれた側が精神的ストレスから急性心筋梗塞を発症しその場で死亡したような場合、死体を診ただけで医学的に心筋梗塞だから犯罪死ではないと断定していいのだろうか。あるいは、現実にあった事例として、親が自分の子供に投与すべきインスリンを投与せず子供が糖尿病性昏睡で死亡したケースもある。また、路上で突然死していた事例を臨床医がCTで撮影したところ、典型的なくも膜下出血の像が得られ、病死と判断した場合でも、警察が介入し、状況の調査をしたところ、顔面を殴打されたことが判明し、後の司法解剖で椎骨動脈が顔面殴打によって裂け、くも膜下出血で死亡したことが判明する事例もある。こうした事例は、法医学的知識の不足した医師の診立てだけでは、病死と判断されがちだが、状況次第で他殺も考慮しなければならない事例であり、当事者や国民の権利維持のためには、適切に証拠保全と死因究明が実施されなければならない。このように、医師の観点から病死が疑われる場合でも、死亡までの経緯次第では、死亡診断書の「死因の種類」欄にある「病死及び自然死」に該当するとは限らない。それゆえ、死亡時までの経緯がはっきりしない場合は、医学的検査だけではなく、捜査・調査機関と連携して社会的な死因を決定しなければならない。そうでなければ、犯罪や事故事例の見逃し・再発など、社会的な問題が発生する。たとえば、乳幼児突然死症候群(SIDS)がよい例であろう。SIDSの事例は、医師のみの判断で病死と判断することで、保育所等での窒息死が隠される可能性があることが社会問題となっている。病院外での変死事例を、警察が医師のアドバイスを無視し、独断で病死としてしまうとすれば問題であるが、病院内で発生した異状死事例についても、状況の調査なしで、医師が独断で病死としてしまうとすれば、それも問題である。法的・社会的な死因を適正に決定するためには、医学的検査と状況調査を総合して判断することが必要であり、そのために、医師側には、適正な調査機関への届け出が求められている。それは、診療関連死でも同様である。もちろん、診療関連死が発生した場合でも、良好な医師・患者・家族関係は壊されるべきではないだろう。病院側が、病理解剖や画像診断といった手法で、死因を真摯に究明し、遺族に説明した上で、遺族の納得が得られるのであれば、それを妨げるべきではい。しかし、そうした第三者が介入しない解決方法には、おのずから限界がある。場合によっては、第三者機関に届け出た上で、積極的に第三者を介入させ、法的・社会的に適正な証拠保全と死因究明を実施しなければ、大野病院事件がそうであったように、遺族だけでなく、医師が不当な扱いを受ける結果につながる。このことは、自動車間で接触事故が発生した場合、警察に通報しなければ、場合によっては当事者間で事実認定を巡って争いになることがあることと類似している。しかし、日本では、医学的検査と状況の調査を総合し、法的・社会的死因を判断してくれる機関が、現在の未熟な捜査機関以外には存在しておらず、それが診療関連死における諸問題の根源になっているように見える。

日本の死因究明制度

既に述べたとおり、法的・社会的な死因を適切に決定するためには、医学的な死因診断と、周囲の状況調査を十分に実施する必要がある。しかし、日本においては、諸外国と違って、本来あるべき法医学研究所など医学的な死因診断を行う専門機関もなければ、検死局のような死因究明を専門に実施する成熟した捜査機関もない。そのため、大部分の死体は、法的・社会的に適正な死因診断をされることなく荼毘に付され、遺族は何ら説明を受けずに放置されている。また仮に司法解剖まで至ったとしても、その情報は未熟な捜査機関により隠蔽される。そのため、犯罪や事故の見逃しが多発し、診療関連死においては、遺族のやり場のない怒りが医師や病院に向けられる。

そもそも、日本が、死因究明のための解剖を行うようになったのは、明治期以降である。このとき、ヨーロッパから司法解剖が導入されたものの、江戸時代からの検使制度が影響し、ヨーロッパのように死因が医学的に判明しない場合に司法解剖を実施するのではなく、警察官が五官による検視の結果から犯罪性を疑う場合のみ、司法解剖がされるようになった。戦後、こうした制度の弊害に進駐軍が気づき、法制度の変更が提言された。進駐軍は、死因が不明な死体は、犯罪死、非犯罪死の分け隔てなく、監察医が死因を究明すべきであると提案した。しかしながら、それを受けた厚生省は、犯罪が疑われる遺体は従来通り司法解剖し、そうでない遺体については、監察医が公衆衛生の維持を目的に行政解剖できるという主旨の法律変更をした。それが、死体解剖保存法第8条の制定である。この、厚生省による法律の変更は、政令で指定された一部の地域(東京、大阪、神戸など)には恩恵を与えたが、著しい地域格差の原因にもなった。死体解剖保存法第8条のもたらした最大の弊害は、たとえ死因が不明な遺体が存在しても、医学的検査で死因を特定する以前から、警察が犯罪性がないと勝手に判断でき、手を引くことを法的に許容した点であろう。警察が犯罪性のない死体を検視することを行政検視、そうした死体を監察医が解剖することを行政解剖と通称するが、この行政検視・解剖の遺体については、一部の地域で限定的に監察医が検案・解剖できるとは規定されるものの、誰が費用を負担するのかは法律上記載がない。そのため監察医の設置が認められた地域であっても、地域によっては制度を廃止したり、遺族に費用を負担させるところまである。一方、日本において大多数を占める監察医がない地域では、行政検視分について、検案・解剖を実施する主体すら存在しないことになり、警察が、簡易な初動捜査だけで犯罪性がないと判断された瞬間から、死因が不明のままであっても、誰も責任を取らない状況になった。こうした扱いを受ける変死・異状死体は、諸外国では皆無あるいは、せいぜい数割程度に抑えられているが、日本においては、9割以上も占める。このような日本の死因究明制度では、警察が、一度犯罪と関係ないと判断し、事故や自殺、病死とされた死体については、法的・社会的に妥当な死因が決定されることはなく、後になって遺族ら当事者が後で何らかの事件に巻き込まれて亡くなったのではないかと疑っても、後の祭りになっている。また、諸外国に比べ、捜査側本位の死因究明制度となっているため、仮に医療事故や交通事故などの過失犯が疑われる事例が司法解剖された場合、その情報が捜査情報として開示されず、示談や予防対策に情報が使えなくなっている。こうしたことによる、国民被害は様々なところで発生している。その一例が、予防対策も取られることなく、多数の一酸化炭素中毒での死者を出したパロマ製ガス機器に関連する一連の事件であり、集団リンチによる死亡が病死として処理されそうになった時津風部屋事件であり、毎年報道される保険金殺人などでの殺人見逃しの事案である。また、そうした問題の一つとして、診療関連死の問題も起きていると考えられる。多くの国では、日本と同様、診療関連死も異状死として捜査機関に届け出られるが、初動時から犯罪事案として死因が究明されるのではなく、予防対策のためにも原則情報開示がされる前提で、死因が究明され、慎重に法的・社会的な死因が判断される中で、刑事訴追されるかどうかの判断がある。日本では、そうした手続きが江戸時代のままになっており、犯罪性が疑われたものだけを解剖し、そうした事例についてのみ執拗に刑事責任を追及するような運営が続いている。そのため、犯罪の疑われる死体のみが異状死として警察に届け出られ、司法解剖されるという印象が強く、警察への異状死届け出率が異常に低く、ましてや診療関連死を警察に届け出ることに強い抵抗感がある。

急がば回れ

日本の死因究明制度も、諸外国のように、まずは、犯罪性の有無にかかわらず、医学的検査と状況調査の総合から、社会的な死因を適正に判定する中で、犯罪性があれば、慎重に犯罪性が判定されるが、過失や事故事例については、抑止効果が期待されないような無意味な刑事訴追はしないように努めつつ、むしろそのようなケースでは情報を柔軟に開示して、示談など民事的解決や類似ケースの再発予防のために情報が活用されるべきである。そのためには、犯罪関連以外の多くの事例についても医学的検査を実施すべく、法医学研究所のような機関を整備すると同時に、死因究明に関して成熟した専門の捜査・調査機関を再構築することが必要であると考えられる。

しかしながら、診療関連死の議論においては、それのみを、他の異状死から切り離し、警察以外の機関に届け出た上で、解剖を含めた死因究明、予防対策、民事・行政責任の追及などを行おうという構想が主流になっている。この構想は、オーストラリア・ビクトリア州のコロナー制度で実施されている診療関連死モデル事業を真似たものであるという。しかし、ビクトリア州のコロナー制度では、解剖等死因究明の手続きについては、初動段階から捜査機関の協力下で実施されており、診療関連死だけを捜査機関の関与する死因究明手続きから特別に切り分けて実施してはいない。それにもかかわらず、日本においては、これまでの未熟な捜査機関の在り方は、そのままでよいと追認した上で、全部ではなく、一部の病院内死亡事例のみについて捜査機関から切り離すような形で事故調が設置されようとしている。未熟な捜査機関を野放しにしたままで、事故調を作ったとしても、運営がうまくいく保証はどれほどあるのだろうか。刑法上、業務上過失致死罪が規定されている限り、警察が重大な過失事例で医療に介入せざるを得ないことに変わりはない。しかも、事件がより重大で、より遺族感情が悪化しやすく、また、より再発予防の教訓となるべき事例であれば、あるほど、警察の介入する可能性が高くなり、警察が得た情報は従来通り非開示となる。むしろ、発想として求められるのは、捜査機関が介入した場合でも、死因が究明されるまでの手続きでは、鼻から犯罪事案として扱われるのではなく、死因究明で得られた情報が柔軟に開示され、示談や事故対策等で利用しやすくすることではないだろうか。そのためには、検死あるいは死因究明制度全体における、捜査当局のありかた自体が議論され、改善される必要がある。医療版事故調が有効に作用するかどうかは、捜査機関がどれだけ成熟できるかに依存しているといえ、その点の法整備なしでは不安が残ると言わざるをえない。事故調設置と併せ、日本の死因究明制度全体を議論する必要があるだろう。

社会医学の見直しを

現在、診療関連死における死因究明の問題は、医療崩壊の一つの原因として注目されている。しかし、医療崩壊の原因には、医師不足、医師の労働環境など様々なものがある。こうした問題も解決することが必要だが、そのためには、医学界全体が発想の転換を求められているかもしれない。

医学の目的とはそもそも、人の精神・身体的健康を増進し、それにより人類の幸せを向上させることであろう。その手段の一つとして、手術や薬品による治療が存在する。社会的な制度や法律が人の精神的・身体的健康を損ねている場合、そうした改善については、医学の観点からも提言していくべきであろう。そのために、社会医学という医学が存在しているが、日本では、さほど重視されていないように感じる。日本では、商業的価値のありそうな、分子・細胞・個体レベルでの医学や医療ばかりが重視されてきた。そもそも、江戸時代から明治に至るときに、日本に西洋医学が導入されたが、その際に、仏作って魂入れずのところはなかっただろうか。その後、役人まかせに受動的に医学が発展させられたことはあっても、医学者の観点から医学のあるべき姿を、不断の努力で継続して社会に要請し、能動的に医学を発展させてきたようには見えない。今後求められるのは、そうした点での医学会の発想の転換ではなかろうか。

平成20年11月14日
岩瀬博太郎